書類の中では間違えないのに、生活では迷いっぱなし
日々の仕事では、細かいチェックを何重にも重ね、登記ミスが出ないよう神経を尖らせています。字の一画を見逃さず、添付書類の漏れもないよう確認する。それなのに、生活はどうだ。ゴミの日を忘れて生ゴミが臭う。洗濯物は畳まず山のように積まれ、食事はコンビニ弁当で済ませる日々。ふとした瞬間、「こんな生活、登記簿には載らないんだよな」と虚しくなるんです。
登記申請は几帳面、でも家の中は荒れ放題
事務所の机の上はいつも整理整頓。ペンの位置も決まっていて、書類はラベル分けされたファイルにきちんと収まっている。でも、自宅の机の上は、読みかけの本と封を開けたままの郵便物、期限切れのレトルト食品が混ざり合ってカオス。そんな生活環境の落差に、自分でも苦笑してしまうけど、手をつける元気も湧かない。
完璧主義が生む“疲れ”と“空虚”
仕事ではミスをしないことが大前提。その緊張感の反動なのか、プライベートではとことん投げやりになってしまう。手を抜くことに罪悪感はないけど、気づけば何も積み上がっていない生活に無力感を覚える。自分の部屋を見て、「この空間には、人生の成果が何もないな」と呟いた夜は、一度や二度じゃない。
机の上は整理済み、でも冷蔵庫は空っぽ
冷蔵庫を開けてみると、入っているのは水と酒とケチャップだけ。買い物に行く余裕もなく、気がついたら賞味期限が切れた調味料だけが残っている。事務所では依頼者の人生の節目に関わっているのに、自分の人生は冷蔵庫同様、空虚で期限切れになりそうだ。
「仕事ができる」と「人生がうまくいく」は別の話
司法書士としては、たしかに一人前に見えるかもしれません。けれど、それはあくまで“仕事上”の話。生活は整わず、人間関係は希薄で、毎日をこなしているだけ。社会的な肩書と内面的な充実感が全然リンクしない。そんな違和感がずっとつきまとっています。
なぜか生活の優先順位が後回しになる
やるべき登記があれば、それを最優先にする。結果、食事や睡眠、身の回りの片づけは後回し。「仕事が終わったらやろう」と思っていても、終わった時にはもう何もしたくない。その繰り返しが、生活の質をどんどん下げていく。気づけば、生活の記録が何も残っていない。
誰かの役に立っているのに、自分のことは置き去り
依頼者に「助かりました」と言われると、本当にうれしい。でも、その嬉しさと比例して、自分自身が見失われていくような感覚もある。他人のために動くことで、自分の人生が曖昧になっていく。それが司法書士という仕事の、ひとつの宿命かもしれない。
司法書士という職業が背負いやすい「孤独」
一人で判断し、一人で書類を仕上げ、一人で責任を負う。気軽に相談できる相手もいないし、そもそも専門的すぎて、周囲に説明することすら億劫だ。孤独を感じない日はない。だからこそ、誰かと一緒に食べるご飯や、ふとした会話が妙に沁みる。
事務所の実務は回る。でも、人生の歯車は…?
事務員がいてくれることで、業務はスムーズになった。けれど、なぜだか心の焦りは増している。「彼女は若いし、いずれ辞めるんだろうな」なんて勝手に思って、勝手に寂しくなる。年齢だけが増えて、人生の転機らしいものはとうに過ぎた気がする。
事務員さんがいる安心感と、逆に感じる焦り
彼女が休みの日は、やっぱり少し寂しい。話し相手がいるだけで、仕事場の空気が和らぐ。それだけに、「この人もいずれ辞めるんだろうな」と思うと、居場所がまたひとつ消える気がする。人がいても、どこか心の準備をしてしまう自分がいる。
「あの子は結婚して辞めるんだろうな」と思いながら働く日々
そう思って接していると、どこか無意識に距離を取ってしまう。「お幸せに」と笑って見送れる自信がない。だから、今のうちに感謝を伝えたいと思う反面、なるべく情を移さないように気を張っている。なんだか切ない。
人のために動きすぎて、自分を見失う
人の人生を助けることに慣れすぎると、自分の人生がどこかへ行ってしまう。登記業務は好きだけど、終わったあとに残るのは“充実感”というより“脱力感”。自分の感情に鈍くなっている気がするんです。
「ありがとう」が欲しくて無理してるのかも
「先生のおかげです」と言われるたびに、自分の価値が確認できたようで、ホッとする。けれどその言葉が欲しくて、無理して引き受けることもある。「このままじゃ壊れるかも」と気づいていても、止まれない。承認欲求に頼りすぎているのかもしれない。
職業柄、感謝されるけど“理解”されにくい
感謝はされる。でも、それは表面的な「ありがとう」であって、僕という人間を理解しての感謝ではない。業務に対する評価と、人間としての評価は別もの。そのギャップが、妙な虚無感を生む。正しく働いているのに、報われていない気がしてしまう。
「専門職だからわかってるでしょ」と言われがち
ときどき、役所の職員からも、依頼者からも、「先生なら知ってますよね?」「こういうのってお得意でしょう?」と当然のように言われる。わかっていても辛い。でも「いや、それは…」と返すと頼りなく見られる。それがまた、しんどい。
生活に“登記簿”があったなら
人生にも、所在地を明記する登記簿があったなら、どんなにラクだったろう。今どこにいて、どんな状態なのか、誰かが見てくれるなら、少しは気持ちも軽くなったかもしれない。けれど現実には、僕の生活は未登記。誰にも知られず、誰にも登録されないまま、今日も静かに続いていく。
人生の所在地を確認できたら楽なのに
仕事の依頼書には住所氏名があって、印鑑もある。なのに自分の人生となると、どこにいるのか、何をしているのかすら曖昧。誰かに見守られていない感覚が、余計に孤独を強くする。「僕の人生、どこに登記されてるんだろう」と思わずにはいられない。
登記で補えない「心の空白」
完璧な登記も、誤りのない申請も、自分の心を埋めてはくれない。必要とされている実感と、自分の人生に対する納得感は、まったく別の問題。書類では処理できない部分にこそ、本当の苦しさがあるのだと思う。