誰かと話したいのに、声が出ない夜がある ―司法書士の孤独と向き合う日々―

誰かと話したいのに、声が出ない夜がある ―司法書士の孤独と向き合う日々―

誰かと話したい。でも誰にも言えない日がある

今日も無事に仕事を終えた。書類は片付き、申請も済んだ。事務員も定時で帰って、事務所には僕一人。PCの電源を落として、椅子にもたれかかる。その瞬間、ふと「誰かと話したいな」と思う。でも、連絡する相手がいない。いや、正確に言えば、連絡できる相手がいても、なぜか声が出ない。疲れているのか、遠慮してしまうのか、自分でもわからない。ただ、そういう夜が最近、増えてきた気がする。

電話をかける相手がいないという現実

かつては週に何度か、同業者と飲みに行ったり、学生時代の友人と長電話することもあった。でも、独立して忙しくなるにつれて、連絡も減り、気づけば誘われることも減っていた。誰かに電話をかけようと思ってスマホを手に取っても、「今さら?」という気持ちが先に来て、結局、着信履歴を眺めて終わる。司法書士として、誰かの相談には乗れても、自分が誰かに頼るのは、どうしてこんなに難しいのか。

事務所を出た後の静けさがこたえる

夕方、事務員が「お先に失礼します」と帰ったあと、事務所の中が一気に静まり返る。仕事中はバタバタしていて気にならないのに、ふとひと息ついたときに、この静けさがやけに身に染みる。家に帰ってもテレビの音だけが鳴っていて、それすら煩わしくて消してしまう。無音の空間にいると、自分の足音やため息がやたら大きく聞こえる。そのとき、「誰かと話したい」が、心の中で膨らんでいく。

LINEの未読と既読に疲れた

SNSは便利だけど、気疲れも多い。LINEで「元気?」と送ったのに既読スルーだったときの、あの小さなダメージが意外とあとを引く。「今は忙しいだけだよ」と自分に言い聞かせても、既読のまま返事がこない画面を何度も見てしまう。逆に誰かからメッセージが来たとき、「今返すのもな…」と躊躇してしまう自分もいる。こうして段々と、何も送らず、何も話さず、沈黙だけが積み重なっていく。

「相談できる誰か」なんて本当にいるのか

世間では「悩んだら誰かに相談して」と言うけれど、その“誰か”が誰なのか、僕にはわからなくなっている。家族にも言いづらいことがあるし、同業者には弱みを見せたくない。事務員に愚痴るわけにもいかないし、友人はそれぞれの生活で精一杯。結局、話す相手がいないから、自分の中にためこむしかない。司法書士という仕事は、人の悩みに向き合う分、自分の悩みはなおさらこじれていく。

身内には話しにくい、友人も減った

親兄弟にだって、弱音を吐けるとは限らない。「だったら仕事辞めれば?」なんて、極端な反応を返されることもある。気軽に話せた友人とも、年齢とともに話題が合わなくなり、次第に連絡が途絶えた。会えば「久しぶり!」と盛り上がるのに、その後はまた沈黙。そうなると、ますます「話したい」と言えなくなる。「孤独になりたいわけじゃないのに、どうしてこんなに一人なんだろう」と思う。

専門職ゆえの「相談しづらさ」

司法書士という肩書きは、一見信頼されるが、同時に「ちゃんとしている人」というイメージを背負う。だからこそ、悩んでいる姿を見せにくい。「そんなことで悩むんだ」と思われたらどうしよう、という変なプライドが邪魔をする。かといって、士業仲間に打ち明けると、変に噂になるのも怖い。結果的に、誰にも言えず、自分で自分の心のケアをする日々が続いていく。

なぜ「話したい」が口に出せないのか

本当は、ただ誰かと他愛ない話がしたいだけなのに、それを言葉にするのがこんなにも難しいのはなぜだろう。自分の中で「話したい」と「迷惑をかけたくない」がせめぎ合い、声になる前に消えてしまう。笑顔を作ることはできても、「寂しい」とか「しんどい」とか、感情を素直に出すことが苦手になったのは、歳のせいなのか、仕事柄なのか。

強がりなのか、それとも諦めなのか

「一人でも大丈夫」「誰にも頼らなくても生きていける」そんなふうに強がってきた。でもそれは、本心からの自信ではなくて、「どうせわかってもらえない」というあきらめに近い。強がって笑ってみせるのは、誰にも心配をかけたくないから。でも内心では、誰かに「話してもいいよ」と言ってほしくてたまらない。自分の中に押し込めた「話したい」が、いつか爆発しないかと不安になる。

「忙しいから大丈夫」と思われたくないのに

司法書士と聞くと、「忙しそう」とか「しっかりしてそう」と言われることが多い。たしかに、仕事は忙しい。でも、だからといって悩みがないわけじゃないし、疲れていないわけでもない。むしろ忙しさで心がすり減っているのに、それを理解してもらえないもどかしさがある。「きっと大丈夫でしょ」と勝手に決められることで、余計に孤独を感じてしまうこともある。

自分の弱さを見せる怖さ

「強くあれ」と言われてきたわけじゃないのに、いつの間にかそう振る舞うようになった。仕事ではクライアントの前で毅然としなければいけないし、家族やスタッフにも安心させたいという思いがある。でも、どこかで「弱い自分」を認めるのが怖い。それを見せたとき、相手が引いてしまうんじゃないか、距離を置かれるんじゃないか。そんな不安が、言葉を飲み込ませてしまう。

司法書士だからって、強いわけじゃない

人の登記や財産に関わる仕事をしていると、「しっかり者」と思われがちだ。でも、実際のところ僕もただの人間だ。誰かに頼りたい夜もあるし、泣きたい夜だってある。司法書士である前に、一人の弱い人間として、感情を出してもいいはずなのに、「そんな自分は見せちゃいけない」と思い込んでいる。自分で自分に壁を作っているのかもしれない。

独立と孤独はセットなのか

独立して自由になった反面、「一人で全部やる」ことの重さも引き受けることになった。相談相手がいない、ミスが許されない、経営も自己責任。そのすべてがプレッシャーとしてのしかかる。自由と孤独は、表裏一体なのかもしれない。気づけば、誰かと一緒に何かをするという発想がなくなっていた。

「自由」はあっても「気軽さ」はない

組織にいた頃は、「愚痴」や「雑談」が自然に発生した。でも今は、そういった気軽な会話がほとんどない。相談するには予約が必要で、気軽に飲みに行くことも減った。「自由に働けていいね」と言われることもあるけれど、それは「気軽にしゃべれる人がいない不自由さ」と表裏一体だと思う。

何でも自分で決める疲労

今日の案件にどれから取りかかるか、明日の段取り、月末の資金繰りまで。すべて自分で決めて、処理して、誰にも文句を言われず終えていく。でもこの「文句を言われない」という状況が、実はとても孤独だ。良くても悪くても、誰かと分かち合えない。責任も達成感も、すべて一人で受け止めなければならない。その疲労は、思っている以上に心にくる。

誰かに頼るのが下手になった

長年一人でやってきたせいか、「頼る」こと自体が下手になった。誰かにちょっとしたことをお願いするのも、気が引けてしまう。仕事でもプライベートでも、「お願いできない自分」が定着してしまった。誰かが「何かあったら言ってね」と言ってくれても、「大丈夫」としか返せなくなっている。

誰かと話せた日を、ちゃんと覚えている

それでも、時々誰かとふと話せた日がある。そんな日は、少し心が軽くなる。「ああ、今日はちゃんと人間だった」と思える。内容は大したことじゃなくても、人の声を聞くというのは、こんなにも力になるんだと、改めて思い出す。

ふとした雑談が心を救ったこともある

ある日、近所のカフェで常連のおばちゃんに「最近顔見なかったけど大丈夫?」と声をかけられた。たったそれだけのことなのに、涙が出そうになった。気にしてくれる人がいる、それだけで救われる。小さな会話が、沈みがちな心に灯をともしてくれることもある。

コンビニの店員さんとの5秒の会話

「いつもありがとうございます」と言われただけで、「こちらこそ」と笑顔が返せた日。それだけの会話でも、心の奥で何かが和らぐのを感じた。長話なんていらない。ただ、人と人として交わす言葉が、今日一日を頑張ろうと思わせてくれる。

他士業との世間話が妙に沁みた

登記相談の帰り、税理士の先生と立ち話したとき、「いや〜俺も最近キツいよ」と言われて、思わず笑ってしまった。みんな疲れているし、悩んでいる。そう思えると、自分だけが苦しいわけじゃないと思えて、少しだけ救われた。

「話したい」と言える勇気を持ちたい

今日もまた、「誰かと話したい」と思いながら、何も言えずに一日が終わる。でも、少しずつでもいいから、「話してもいいかな」と声に出せるようになりたい。誰かに頼ることを恥ずかしいと思わず、ただ話せる相手を見つけたい。それが、司法書士としてよりも、一人の人間として大事なことのように思えてきた。

無理に明るくしなくていい

元気なふりをしなくてもいい。落ち込んだって、誰かに聞いてもらえたら、それだけで十分だ。誰かに「話したい」と言うのは、弱さじゃない。むしろ、それが人としての強さなのかもしれない。そう思えるようになるまで、もう少し時間はかかるかもしれないけれど、心の中にあるその気持ちは、きっと誰かにつながっていく。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。