冷蔵庫を開けたら、心まで冷え込んでいた夜

冷蔵庫を開けたら、心まで冷え込んでいた夜

冷蔵庫のドアを開けた瞬間、胸に広がったもの

仕事が終わって帰宅し、何気なく冷蔵庫のドアを開けた。そこに広がっていたのは、空っぽの庫内。牛乳も、卵も、野菜もなかった。照明の光だけが白々しく灯っていて、何だか自分の内側まで照らされたような気がして、急に胸がざわついた。冷蔵庫の中が空なこと自体は、正直よくある。でもその日は違った。冷蔵庫の「空」が、そのまま自分の「心の空白」とリンクしてしまったようだった。

中身のない庫内と、空っぽの自分

冷蔵庫の中が空っぽだと気づいた瞬間、なぜか情けなくなった。仕事はそれなりにこなしている。依頼もあるし、事務所も維持できている。けれど、自分の生活はどこか置き去りになっていて、気づけば食べることすら後回し。冷蔵庫を開けたことで、その「空白」に直面させられたのだ。まるで、自分の生き方そのものをのぞき込んだような気分になった。

「何もない」ことに慣れてしまった日常

仕事に追われる日々の中で、「何もない」冷蔵庫にも「まあ、そんなもんだ」と思ってしまう習慣が染みついていた。忙しいから仕方ない、食べに出ればいい、コンビニもある。そうやって、自分に言い訳を重ねてきた。でもその言い訳が、自分の生活の中に根を下ろしていたことに、冷蔵庫を開けた一瞬で気づいてしまったのだ。

見えない疲労が心を支配していた

日々の疲れは、肉体よりも心に蓄積している。人の相談を聞き、手続きを進め、感情の波に揺られる。司法書士という仕事は、静かに人の人生に触れていくものだ。その分、こちらの心が削られていることに気づきにくい。冷蔵庫の空っぽは、そんな「気づかれない疲労」が形になって現れたようなものだった。

忙しさの中で、何かを置き去りにしていた

仕事は確かにありがたい。無収入で不安になるよりは、依頼に追われている方がまだ良い。でも、目の前の仕事に没頭するうちに、何か大事なものが抜け落ちていく感覚がある。冷蔵庫が空っぽだったのは、単なる物理的な現象ではなく、心のどこかで感じていた「置き去り」が浮き彫りになった結果だったのかもしれない。

依頼は増えても、心は減っていく

不思議なもので、依頼が増えるほど心が満たされるどころか、逆に疲弊していく感覚がある。新しい案件が入ればプレッシャーが増すし、ミスは許されない。気が抜けない日々が続き、自分のことはどんどん後回しに。食事も、睡眠も、趣味も削って仕事を優先する。そのくせ、「やって当たり前」と思われている感じに、どこか虚しさを覚える。

感謝よりも、催促の電話が怖い

一日に何度かかかってくる電話。その中に「ありがとうございました」という言葉があると、ホッとする。でも現実は、「まだですか?」「いつ終わりますか?」という声の方が多い。そういう時、自分はただの「書類処理装置」なのかとすら思ってしまう。人に喜ばれる仕事のはずなのに、そう感じられない日もある。

「仕事があるだけ幸せ」と自分に言い聞かせるけど

「ありがたいことだよ」「贅沢言うな」…そう言い聞かせながら、毎日を走っている。でもその「ありがたさ」に縛られて、どこか身動きが取れなくなっている気もする。冷蔵庫に食材を入れる余裕もないほど、日々に追われているのは、本当に自分が望んだ働き方だったのか。ふと立ち止まってしまう。

事務員さんの気遣いにすら応えられない自分

一人でやっていた頃より、事務員さんがいてくれる今はずっと心強い。それでも、その人の気遣いや声かけに、ちゃんと反応できていない自分がいる。「今日はごはんどうします?」と聞かれても、「適当で」とか「コンビニで」と曖昧に返してしまう。それは相手への無関心じゃなく、自分への無関心の裏返しだ。

「お昼どうします?」の一言が刺さる

「お昼どうします?」と聞かれた時、なんと返していいか分からず詰まることがある。それは空腹かどうかよりも、「何が食べたいか」「どうしたいか」が自分の中で曖昧になっているからだ。選ぶ気力も湧かず、決断するのが面倒になる。そんな自分が情けなくて、答えるのが億劫になる悪循環。

買いに行く元気もなく、食欲もない

忙しさのせいか、あるいは心がすり減っているせいか、空腹感そのものが鈍ってくる。何かを食べようという意欲もなく、ただ水だけで過ごしてしまう日もある。そういう時、事務員さんの目が気になって仕方ない。「この人、ちゃんと食べてるのかな」と思われていそうで、それもまたプレッシャーになる。

優しさに甘えると、情けなくなる

誰かが差し入れをくれたり、お弁当を買ってきてくれたりすることもある。それは本当にありがたい。でも、その好意に甘えた自分が、後から妙に情けなく感じてしまう。「こんな自分で大丈夫か」「頼りっぱなしじゃないか」と自問し、結果的に素直に受け取れなくなる。優しさすら、素直に受け取れない心の疲労がそこにはある。

「それでも続けている理由は何ですか?」と聞かれたら

たまに若い人や知人から、「何のためにその仕事続けてるの?」と聞かれることがある。そのたびに、言葉に詰まる。「お金のため」と言えば味気ないし、「やりがい」と言うにはちょっと心がついてこない。実際は、やめる理由が見つからないだけなのかもしれない。もしくは、まだどこかで、誰かの役に立っていると信じていたいのかもしれない。

答えられないけど、辞める理由も見つからない

仕事がつらいと感じる日もある。でも、それを辞める勇気も、他の道を選ぶ決断力もない。ただ、この道をなんとなく歩き続けている。気づけば10年、15年と経っていた。そういう「続けているだけ」の仕事人生でも、誰かの支えになっているなら、それでいいのかもしれないと思う自分もいる。

責任感という鎖と、自営業のリアル

自営業は自由だと言われるけれど、実際には責任感という鎖が強くて重い。依頼者の人生の一部を預かる以上、「嫌だから休む」「気分じゃないから辞める」という選択肢はない。誰にも責められなくても、自分が自分を責めてしまう。そのループの中で、自分を支えているのは、もう「気力」ではなく「習慣」になってしまっているのかもしれない。

それでもやっぱり、誰かのために動いている

矛盾しているけれど、「もう嫌だ」と思いながらも、誰かの助けになった瞬間に、また少し頑張ろうと思えてしまう。その繰り返し。完璧じゃないし、冷蔵庫は空っぽだけど、それでもどこかで、誰かの生活の一部に自分の仕事が役立っていると思えるなら、たまには心が満たされることもある。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。