誰にも予定を聞かれない金曜夜の重み
金曜の夕方、仕事を終えたときのあの開放感。かつては「週末どこ行くの?」とか「明日ひま?」なんて言葉が自然と飛び交っていた。でも、最近はまるでそんな気配もない。スマホは静まり返り、事務所を出ても誰かと約束しているわけでもなく、ただ一人で帰路につく。独立してからの年月とともに、予定を聞かれることが減り、気づけばその寂しさが週末の恒例になっていた。
予定を聞かれた頃の懐かしさと今の落差
昔は「予定がある」ことが面倒に思えた。学生時代や若い頃は、誰かと過ごすのが当たり前で、むしろ一人になりたいと思うこともあった。しかし今は、その“当たり前”がどれだけ貴重だったかを思い知らされる。今の自分にとって、予定を聞かれることそのものが人との関係性の証しなのだと、ようやく気づいた。でも、その気づきはいつも、金曜夜の静けさの中でやってくる。
学生時代の金曜夜は輝いていた
高校時代、野球部で汗を流した後の金曜夜は格別だった。仲間と銭湯に行ったり、コンビニで菓子パンを買ってくだらない話をしたり。予定なんて意識することもなく、自然と人が集まり、気づけば笑っていた。今思えば、あの頃は「予定」ではなく「関係性」そのものが先にあった。誰かが誘ってくれる前提で生きていたあの無邪気さが、今ではただただまぶしい。
社会人になっても続いた「誰かとの約束」
20代、まだ事務所勤めをしていた頃は、同僚と飲みに行く約束や同期とのLINEのやりとりが日常だった。予定が詰まっている週末がしんどく感じるときもあったけれど、それでも「誘われる側」でいられたことが、今思えばありがたいことだった。独立して地方に戻り、自分の裁量で動けるようになった代償が、「誘いの声」の消失だったのかもしれない。
あの頃は誘いが面倒だと思っていたのに
「また飲み会かよ」とか「週末も疲れるなあ」と思っていた若い頃の自分に言ってやりたい。そんな日々が、どれだけ心をあたためてくれていたか。今では、たとえ誘いがあっても断る理由が見つからない。いや、誘いそのものが来ないのだから。寂しさというのは、突然やってくるものじゃない。少しずつ、でも確実に日常に浸透してくるのだ。
なぜ寂しさは休日前夜に押し寄せるのか
平日の忙しさにまぎれているときは気にならないが、休みの前夜というのは不思議と心がスッと空白になる。そしてその隙間に、「誰からも声がかからない」という現実が入り込んでくる。孤独というより、社会との接点が一時的に失われたような感覚。たとえば電車の窓に映る自分の姿に、妙に冷静になってしまうのも、たいてい金曜の夜だったりする。
「休みは何するの?」の一言がない世界
事務員の彼女からも、帰り際に「先生、週末は何か予定あるんですか?」なんて聞かれることもない。別に聞いてほしいわけじゃない、と思いたいが、やっぱり聞かれると少しうれしい。そんな小さなやりとりが、自分の存在を認識させてくれるのだろう。予定があるかどうかよりも、誰かが自分の予定を気にしてくれるかどうか。それが大きい。
予定の有無ではなく、誰かと繋がっているか
予定が詰まっていても、孤独を感じる人はいる。逆に予定がなくても、心が満たされている人もいる。その違いは、おそらく「繋がり」を感じられるかどうかだ。私にとって、予定がないことよりも、予定を聞かれることがない現実の方が堪える。誰かが自分を思い出してくれる。そんな些細な繋がりが、日々の安心感につながっていたのだと今さら実感している。
忙しさが寂しさを忘れさせてくれる平日
平日はとにかくバタバタしている。登記の締め切り、相談の予約、書類作成、役所とのやりとり。気づけばあっという間に夜になり、コンビニ飯で済ませて風呂入って寝るだけ。でも、その忙しさがありがたい。寂しさに向き合う隙を与えてくれないからだ。仕事の山はしんどいが、心の空白を埋めてくれるのもまた、仕事だったりする。
独立開業した男の週末にあるもの
司法書士として独立したことに後悔はない。でも、独りで事務所を構えていると、週末の空気が重たいときがある。平日よりも時間がある分、孤独感がじわじわと押し寄せてくる。予定がないというより、「予定が入る余地もない関係性」しかないことに気づくのだ。成功したいと思って始めた道の先で、まさかこんな孤独と向き合うとは思っていなかった。
予定が入らないのは自由か孤独か
自由を手に入れたはずなのに、その自由がこんなに孤独を連れてくるとは。誰にも縛られず、自分の裁量で動ける。これは確かに大きな利点だ。でもその分、自分で自分を管理しなければならない。誰からも誘われないということは、誰にも期待されていないという現実でもある。自由と孤独は表裏一体。それを痛感するのが、休みの前夜だ。
事務員のほうが予定が充実している現実
金曜の夕方、事務員が「明日、美容院行って、それから友だちとランチです」と笑顔で話していたのを聞いたとき、心のどこかがキュッと縮んだ。ああ、こっちは何の予定もない。いや、やろうと思えば掃除でも本でも読める。でも「誰かと会う予定」がまったくないという事実が、無言で自尊心を削ってくるのだ。自分の人生、こんなはずじゃなかったはずなのに。
司法書士の仕事と孤独の絶妙な関係
人と関わる仕事なのに、妙に孤独。それが司法書士の不思議なところだ。相談者や依頼者とたくさん会話をする。でもその関係はあくまで“業務上のもの”。親しみはあっても、そこに友情はない。優しさも信頼もある。でも、LINEの連絡先にはならない。そんな一線を引く役割である以上、深く関わらないことが求められているのかもしれない。
人と接しているのに、心はひとり
一日に何人もの人と話す。でもそのほとんどは「登記の内容」「相続の件」「費用について」。どれも大切な話だけれど、プライベートな会話は一切ない。誰かと話したはずなのに、なぜか今日も孤独感が残る。それはきっと、誰かと“心”を交わしていないから。言葉があっても、感情の往復がなければ、ひとは孤独を感じてしまうのだと思う。
感謝はされるが、友にはなれない
「先生、本当に助かりました」と笑顔で言われると、やっぱりうれしい。仕事をしていて良かったと思える瞬間だ。でも、その人から「今度一緒にご飯でも」なんて誘われることは、まずない。距離感を守ることが大事な職業だとわかっていても、人間としての寂しさは残る。仕事上の信頼と、個人としての繋がりは、やはり別物だ。
「先生」と呼ばれるほど、距離ができる
「先生」と呼ばれるたびに、少しだけ胸がざわつく。尊敬の表れでもあるのは理解している。けれどその呼び名が、壁をつくっているのも確かだ。気さくに話したいと思っても、「先生」と呼ばれる側に、それを崩す勇気が求められる。結局、自分が「先生」である限り、本音で語れる場は限られてしまう。その現実が、金曜の夜に静かにのしかかる。
誰にも聞かれない予定と向き合う覚悟
予定を聞かれない人生を受け入れるしかないのか。それとも、まだどこかに繋がりを求めてもいいのか。答えは出ないまま、また金曜の夜がやってくる。でも、ひとつ言えるのは、予定がないことを「欠けている」と感じる自分の感覚は、確かに“誰かを求めている”ということなのだ。そんな自分を否定せずに、静かに向き合っていくしかない。
寂しさに耐える力もまたスキル
寂しさに慣れてしまうのは怖い。でも、耐える力を持つことは悪いことじゃない。忙しさに紛れてごまかすのではなく、寂しさを正面から見つめることで、自分が何を望んでいるのかがわかるようになる。司法書士として、人と関わる仕事をしているからこそ、自分自身との関係性を整えることが必要なのかもしれない。
無理に予定を埋めない生き方の選択
予定がないことを「ダメなこと」だと決めつけていた。誰にも誘われないことが、自分の価値を表しているように思っていた。でも、それは幻想だ。予定がない夜を、ただ一人で過ごすという選択肢があってもいい。誰かと繋がることも、ひとりでいることも、どちらも人生の大切な時間。そう思えるようになるには、少しだけ時間がかかった。