ふと気づけば、昼休みはずっと一人だった
ある日、何気なく自分の昼休みの過ごし方を振り返ってみた。気がつけば、誰かと一緒に昼ごはんを食べた記憶がまったく思い出せない。司法書士として独立して十数年、忙しさにかまけてそんなことすら考えてこなかったけれど、改めて思い返すと、これはなかなかの孤独だ。昼ごはんって、もっと誰かと「何食べる?」とか「最近どう?」なんて話しながら過ごす時間じゃなかったのか。そういう時間、もうずいぶん長く持っていない気がする。
昼ごはんに「誰か」と行った記憶がないという現実
大学の頃までは友人と学食で他愛もない話をしながら食べていたはずなのに、社会人になってからは一人で食べるのが当然になっていた。司法書士になってからはさらに拍車がかかった。個人事務所で働くということは、仕事のスケジュールも食事のタイミングも自由である反面、「誰かと合わせる」という文化がなくなる。気がつけば、誰かに「今日ランチどうですか?」と声をかけた記憶がなくなっていた。
忙しいだけが理由じゃない気がしてきた
午前と午後の案件の合間に急いでコンビニに行って、車の中でささっと食べて戻る…という生活が長い。だが、いくら忙しいからといって、10年以上もそんな生活が続くのは、やはりそれだけが理由じゃない気がしてならない。人との関わりを面倒に感じてしまっている自分がどこかにいたのかもしれない。
職場に事務員さんはいても、食事は別行動
うちの事務所には、ありがたいことに事務員さんが一人いる。でも彼女とはあくまで仕事上の関係で、昼ごはんを一緒に食べに行ったことは一度もない。むしろ「先生は一人で食べたいタイプですよね」と暗に悟られている気さえする。お互い気を遣わない距離を保っているというべきか、距離があるだけというべきか。
いつの間にか「ひとりで食べる」が当たり前に
今では、誰かと昼を食べるという選択肢が頭に浮かばない。自然とスマホを持ってコンビニに行き、車の助手席でエンジンをかけっぱなしにして、もそもそと食べて終わり。孤独なのか気楽なのか、自分でもわからない。
コンビニ駐車場の車内が定位置
「またこの唐揚げ弁当か…」と思いながら車の中で食べるのが習慣になって久しい。エンジンの音、遠くから聞こえるラジオ、片手で操作するスマホ。それが私の昼の景色だ。決して居心地が悪いわけじゃない。でも、誰かと並んで食べるという選択肢がゼロになっている現実が、少しだけ寂しい。
誰にも気を遣わない、という名の孤独
自由であることと孤独であることは、紙一重だ。「誰かと食べると気を遣うから」という理由で避けてきた昼食の時間。けれど、気を遣うこともまた人間関係の一部だったのかもしれない。司法書士の仕事では、事務的な会話ばかりで本音を話す場面は少ない。だからこそ、昼のちょっとしたおしゃべりが恋しくなる日もある。
「昼一緒にどう?」と誰も言わないし、言えない
こんな日々が続くと、「昼ごはんを誰かと食べる」こと自体がハードルになってしまう。誰かを誘うのも億劫で、誘われることもない。人間関係のスタートラインすら踏み出せないまま、昼休みは静かに過ぎていく。
会話を避ける日々と、声をかけられない自分
昔はもっと社交的だった気がする。飲み会だってたまには顔を出していたし、初対面の人とも多少の雑談はできていた。それが今では「お疲れ様です」「書類どうぞ」「ありがとうございました」の三語だけで一日が終わることもある。自分が壁を作っているのだと思うけれど、どこかで「これでいいや」とも思ってしまっている。
コミュ力不足では片付けられない感情
いわゆる「コミュ障」という言葉で済ませたくなることもある。でも、本当にそうだろうか。話したい気持ちがあるのに、それを押し込めているからこそ、余計に苦しくなる。自分が誰かと関わりたいと思っていることすら、普段は忘れたふりをしているだけかもしれない。
同業の知人とも、ランチの習慣はなかった
司法書士同士で集まる場面は年に数回あるが、それも研修や会合が中心。終わった後は「じゃあまた」で解散。わざわざ昼を一緒に食べるというような関係にはなりにくい。距離感がある業界だなと感じることもある。
仕事の話はできても、昼ごはんは別世界
書類や登記の話はできる。でも「今日何食べる?」という、たったそれだけの話題を投げかけるのがこんなにも難しいとは思わなかった。おそらく、そこにはちょっとした親しみや温度感が必要なのだ。そこまでの関係を築けていない自分が、少し寂しい。
仕事が理由か、それとも性格か
誰かと昼ごはんを食べる機会がない理由を、忙しさや職業のせいにしてきた。でも本当は、自分の性格や生き方の結果なのかもしれない。そう思うと、ちょっと身が引き締まる。
司法書士という職業の「ひとり感」
個人でやっている司法書士は、良くも悪くも「ひとり」が基本。責任も自由も全部自分に返ってくる。誰かと昼を食べるという習慣が育ちにくいのも、無理のない話なのだ。ただ、それを理由に孤独を深めてしまっていいのか、悩ましい。
お客様とは話すけど、心は通わない
仕事ではたくさんの人と話す。登記や相続、成年後見。いろいろな相談を受ける。でもそれは、あくまで「仕事」としての会話であって、心から気を許せる関係ではない。だからこそ、誰かと他愛ない話をしながら食べる昼ごはんに、特別な意味を感じてしまう。
優しさはあるけどモテないという現実
自分で言うのも変だが、決して人に冷たくしているつもりはない。仕事では丁寧に対応しようとしているし、相手のこともなるべく考えているつもりだ。だが、そういう優しさが恋愛につながることはない。モテない。シンプルに、それだけ。
女性と行ったランチも思い出せない
そういえば、最後に女性と昼ごはんを食べたのはいつだったか。思い出せない。そもそも、異性と昼を一緒に食べたこと自体、ほとんどなかったのではないか。そんな自分に少し笑ってしまいそうになるが、心のどこかでは切ない気持ちもある。
共感してくれる人が、きっとどこかにいる
こんな孤独な昼の話に共感してくれる人なんているのだろうか。そんな疑問もあるけれど、たぶん、いると思う。司法書士に限らず、誰かと食べることが少なくなった人は、きっと少なくないはずだ。
司法書士を目指す人に伝えたいこと
この仕事を目指す人には、現実の一面としてこういう孤独もあるということを伝えておきたい。やりがいや達成感もあるけれど、人間関係に恵まれるとは限らない。自分から関係を築いていく努力がなければ、ひとりで食べ続ける人生になるかもしれない。
孤独とどう向き合うかが、続ける鍵になる
孤独そのものが悪いわけではない。むしろ、それをどう受け止めて自分の中で意味づけしていくかが、この仕事を長く続ける上での鍵になると思う。誰かと食べる昼がなくても、自分の時間をどう豊かにするか。そう考えるようになった。
それでも、たまには誰かと食べたいと思う
とはいえ、やっぱり誰かと食べる昼ごはんには、ひとりにはない温かさがある。ちょっとした笑い話や、最近の悩みをぽつりと話せる時間。そんな瞬間があったらいいなと思う。いつかそんな昼休みを過ごせる日がくるだろうか。いや、自分から動かないと、来ないのだろう。