テレビの前で、ため息が出た
仕事が終わって、コンビニ弁当を温めて、ソファに沈む。テレビをつけたら、ちょうど恋愛ドラマの佳境だった。ヒロインが泣いて「会いたい」と叫んでいたけれど、僕の心は1ミリも動かなかった。ただ「寒そうだな、このロケ地」とか「この時間帯に外で叫んでたら通報されるな」なんて現実的なことばかり考えてしまう。共感どころか、ため息が出る。こんなに冷めた自分に、逆にショックを受けた。
昔はキュンとしたはずのシーンに無反応
若い頃は、ドラマにドキドキした。失恋のシーンでは自分の過去と重ねて泣いたり、うまくいく展開に拍手を送りたくなったり。あのときの自分には、恋愛に対する希望も不安も、どこか「自分ごと」として感じられるだけの余白があったんだろう。けれど今は違う。キスシーンも涙の別れも、まるで遠い世界の物語。もはや外国語の映画を字幕なしで観てるような感覚に近い。
感情が枯れたのか、慣れたのか
自分の中の感情が減ったのか、それとも何度も同じような展開を見すぎて慣れてしまったのか。正直、自分でもわからない。ただ、仕事柄「事実」と「手続き」にばかり向き合っているせいか、感情を挟まない癖がついてしまっている気がする。依頼人の家庭事情や人生の節目に関わっても、どこか一歩引いた位置に自分を置いてしまう。その癖が、ドラマにまで及んでいるのかもしれない。
そもそも共感できる余白がない
恋愛ドラマに登場するのは、だいたい20代後半から30代前半。恋と仕事の間で揺れるようなキラキラした年齢の人たち。気づけば自分は、その「対象外」になっていた。彼らの悩みは、もう通り過ぎたか、通らなかったか。どちらにせよ、自分の人生とあまりにもズレている。共感できないのも当然かもしれない。共感する余白すら、日々の業務のなかに削られてしまっている。
年齢と孤独の自覚
40を越えて、自分の位置がだいぶはっきりしてきた。家庭も恋愛もない。毎日同じ道を通って事務所に入り、誰かに頼られ、誰かを支える。それなりに責任もある。でも、ふと立ち止まったとき、「あれ?このまま誰にも必要とされずに終わるのかな」と思う瞬間がある。年齢とともに、孤独の影は濃くなる。
「いい人いないんですか?」の無慈悲さ
知人や依頼者にたまに聞かれる。「先生、いい人いないんですか?」と。悪気はないのはわかってる。でも、心にグサリとくる。いい人どころか、そもそも人と出会う場がないし、自分の魅力をアピールする場もない。ましてや司法書士なんていう地味でわかりづらい職業に、興味を持ってくれる人がどれだけいるんだろう。
モテないんじゃなく、選ばれてないだけ
昔は「俺ってモテないなあ」と思っていたけれど、今は少し違う。モテないんじゃなく、誰からも選ばれてこなかっただけなのかもしれない。自分に問題があるのか、タイミングが悪かったのか、正解はわからない。ただ、恋愛ドラマのように「あなたじゃなきゃダメなの!」なんて言われた記憶は一度もない。
優しさじゃ、食いつなげない現実
「優しいね」と言われたことはある。でも、それは「恋愛対象ではない」と言われる前フリだった。優しさは確かに大事だけれど、それだけじゃこの世の中、誰かの心を動かすのは難しい。現実は、もっとシビアで、もっと冷たい。
今日も恋愛ドラマは流れている
どんなに共感できなくても、テレビをつければ恋愛ドラマは流れている。世間にはまだ恋をする人がいて、胸をときめかせる人がいて、それを見て泣いたり笑ったりする人がいる。僕はといえば、今日も登記簿を見て、書類の山に囲まれて、ひとり暮らしのアパートに帰る。そんな日常に、少しだけため息をついて、また明日が始まる。
でも、僕は今日も登記簿と向き合っている
恋愛とは遠くなっても、人と向き合う仕事はしている。依頼者の不安を受け止めたり、少しでも安心してもらえたり、そんな小さなやり取りに、自分なりの“ドラマ”があるのかもしれない。誰かと心を通わせる瞬間は、恋愛だけではない。それでもやっぱり、恋愛ドラマのようなトキメキが恋しいと思う夜もある。
それでも少しだけ、物語に心を預けたい夜もある
共感できないなと思いながらも、なぜか最後まで見てしまう恋愛ドラマ。心が動かないふりをしているけれど、本当はどこかで「羨ましい」と思っているのかもしれない。誰かに必要とされること、誰かの特別になること。その感覚に、もう一度触れてみたい。そう思う夜がある。