一人でいることが当たり前になった日常
気づけば誰とも会話せずに一日が終わる。そんな日が続くことに、以前は不安や焦りを感じていた。けれど今では、それが当たり前になっている。司法書士という職業柄、一人で黙々と書類に向き合い、役所とのやりとりをこなし、クライアントとの会話も最低限に済ませる。電話もメールでのやり取りに置き換わり、対面する機会がどんどん減っている。昔はもう少し、人との距離が近かった気がする。でもそれも、今となっては昔話だ。寂しさは、忙しさに紛れて見えなくなる。
気づけば誰とも連絡を取っていない
スマートフォンの通話履歴を見たとき、最後に自分から電話をかけたのが2週間前だったと知って、ぞっとした。しかもその相手は取引先で、プライベートな会話など一切ない。LINEは通知ゼロ。誰かと「話すため」に連絡することが、今では一つのハードルになってしまった。話しかけるきっかけがない、というよりも、話したいと思う自分がいない。こんなふうに、一人でいることが普通になると、関係を保つ努力すら面倒になってくるのだ。
会話のテンポに疲れるようになった
たまに地元の友人と再会することがある。けれど、話のテンポが合わない。向こうは家族の話や子どもの学校のこと、職場での雑談などを弾ませるが、こちらは返す言葉が見つからない。何かを話そうとすれば、慎重に言葉を選びすぎて、話す前に気力が尽きる。会話はキャッチボールではなく、こちらのボールは全く飛ばない。そうして話が噛み合わないまま、次第に沈黙の時間が増える。そして「やっぱりひとりが楽だな」と思ってしまう。
人と会う予定が億劫でしかたない
昔は週末に飲みに誘われると、少しは楽しみにしていた。でも今は「誰かと会う予定」があるだけで、前日から憂鬱になる。何を着ていくか、どんな話をすればいいか、無意識に構えてしまうのだ。断る理由を頭の中でいくつも用意して、ギリギリまで迷う。そして「やっぱり仕事が入った」と言ってしまう。嘘じゃない。実際、やることはいくらでもあるのだから。でも、きっと本当の理由は、ひとりに慣れすぎたこの心だ。
楽だけど満たされない静かな時間
ひとりで過ごす時間は、誰にも邪魔されず、自分のペースで動ける。誰かに気を遣うこともなく、思いついたときに作業を進めたり、コーヒーを飲んだり、音楽を止めたりできる。静かで快適。だけどその快適さが、いつしか物足りなさへと変わっていく。仕事が終わった夜、自宅でテレビをつけても笑えないときがある。「この時間を誰かと分け合いたい」とふと思う瞬間。それは贅沢な願いではなく、当たり前の感情だったのかもしれない。
自由だけど孤独な昼休み
昼休みは、自由だ。誰かと一緒に食べる必要もないし、気を遣って会話を合わせる必要もない。だけどふと、周りの事務所の同業者たちが連れ立ってランチに出かける姿を見ると、少しだけ羨ましくなる。「今日は天気いいね」とか「今週忙しいね」みたいな、何気ない会話。それが、自分にはない。昼休みの時間があるたびに、孤独という言葉がちらつく。自由という名の静寂は、時に心に響きすぎる。
何も起きない週末の安心と虚無
誰からも誘われず、誰も訪ねてこない週末。予定は真っ白だが、むしろその空白が安心だ。だけど、午後3時を過ぎた頃になると、何かを「逃している気」がしてくる。外の空気を吸うわけでもなく、ただテレビを眺めて時間が過ぎていく。気づけば、今日一言も声を出していない。こうして過ぎる時間は、確かに穏やかで、確かに空っぽだ。何も起きないということが、時には何よりの不安を生む。
話し相手がいないことへの鈍感さ
昔は誰かと話さないと落ち着かなかった。だけど今は、誰とも話さない日が当たり前になり、話し相手がいないことすら気にしなくなっている。これって、たぶん感覚が鈍くなっているんだと思う。たとえばペットを飼っている人が、動物と話すことで孤独を埋めているように、自分もなにか代替品を探しているのかもしれない。でも、やっぱり人の声は人でしか埋まらない。鈍くなってるだけで、無くて平気になったわけじゃない。
ひとりを選んできた理由とその後悔
自分でひとりを選んできた自覚はある。誰かと一緒にいると、気を遣う。時間を合わせるのも、相手の機嫌をうかがうのも、正直疲れる。だから、ひとりの方が楽だと思ってきた。でも最近、それが本当に「自分の意思」だったのか疑問になる。ただ避けてきただけなんじゃないか? 何かを諦めたり、失うのが怖くて、最初から持たないことを選んできたんじゃないか? そんなことを、夜中にふと考える。
気を遣うことに疲れた過去の人間関係
以前付き合っていた人との関係は、会うたびにエネルギーを消耗していた。相手の言動に過敏になって、怒らせてしまわないように気を張っていた。結局、続かなかった。以来、誰かと一緒にいることに対して、どこかで「うまくいかない前提」で身構えてしまうようになった。気楽に付き合える関係なんて幻想だ、と思い込むことで、傷つく可能性から逃げている自分がいる。疲れるのが嫌で、最初から関係を築こうとしなくなっていた。
ひとりが好きと思い込むことで守ってきた自分
「ひとりが好きだから」と言えば聞こえはいいけれど、それはある種の言い訳だったのかもしれない。本当は誰かと一緒にいたい。でもそれを認めると、誰かと関わらなければならない。その結果、うまくいかなかったとき、自分が否定されたように感じてしまうのが怖い。だから、「最初から望んでない」と自分を説得して、孤独の中に自分を閉じ込めていた。守るために築いた壁が、今では出られない檻になっている。
誰かと生きることのハードルが上がってしまった
ひとりでいることが長くなるほど、人と一緒にいるための筋肉が衰えていく。会話の間の取り方、相手を気遣うタイミング、感情を共有するスキル――そういうものが錆びついて、いざ人と過ごす場に立つと、うまくできない自分にまた傷つく。誰かと一緒に生きることって、こんなに難しかったっけ? 昔はもっと自然にできていた気がする。今はもう、それができる自信がなくなっているのかもしれない。
孤独と仕事と年齢と
この年齢になって思う。ひとりでいることが「寂しい」と言えなくなってきた。言ったところで誰かがどうしてくれるわけでもないし、言えば負けのような気もしてしまう。でも、仕事もある程度落ち着いて、ふと立ち止まると、この孤独感だけがはっきり残っている。司法書士としての人生を選んだ自分の覚悟が、今は静かに響いてくる。誰かと過ごす未来は、まだ描けるのだろうか。
忙しさで寂しさをごまかす日々
毎日が忙しい。登記の締め切り、相談対応、役所とのやりとり、事務員とのやりとり。けれどその忙しさに、どこか安心している自分がいる。考える暇がないから、寂しさに目を向けずに済む。電話が鳴っていれば、今日も必要とされている気がする。でもその電話が鳴らなくなったとき、自分には何が残るのだろう。仕事をしている自分にしか価値がないのだとしたら、それもまた虚しい話だ。
ふとした瞬間に押し寄せる虚しさ
夕方、ふとカーテン越しの夕焼けを見たとき。帰り道のラジオで懐かしい曲が流れたとき。そんな何気ない瞬間に、不意に虚しさが襲ってくることがある。誰とも話さず、ただ黙々と生きている自分。充実しているようで、実は何も満たされていない気がする。誰かに頼ることも、甘えることもなく、ただ「ひとりが慣れてしまった」だけなのかもしれない。
老後のことを冗談にできなくなってきた
昔は「老後は孤独死かな」と冗談交じりに笑っていた。でも最近、その言葉が笑えなくなってきた。現実味が出てきたのだ。健康も体力も、少しずつ衰えを感じるようになってきた。これから先、誰とどんなふうに生きていくのか。司法書士という仕事は、役目を終えたあと、ぽつんと自分だけが残るような気がする。だからこそ今、ほんの少しでも誰かと繋がる勇気が欲しいと思っている。