もう“無料”じゃ済まない気持ちの重さ

もう“無料”じゃ済まない気持ちの重さ

「無料相談ですか?」から始まる一日の違和感

朝の電話一本から、何となく嫌な予感がしていた。「無料でちょっと相談したいんですが」と、相手は軽く言う。でも、こっちにとってはその“ちょっと”が、1時間近くかかることもある。もちろん断ることもできる。でも、目の前の困っている人を無下にできない性分だ。気づけば、その“親切”が一日を押し流していく。そんな日は、なんともいえない重さが胸に残る。

断れない性格が招く“積もる疲れ”

私は昔から、人に頼られると断れない。学生時代も、ノートを貸してと頼まれれば、自分が試験前でも応じていた。今もそれが変わらずに続いているだけだ。だけど、今の“ノート”は時間であり、精神力であり、仕事だ。毎日少しずつ蓄積するその疲れは、どこかで限界を迎える。無料相談が終わったあと、どっと疲れて何も手につかなくなる日もある。

「ちょっと聞きたいだけ」が積み重なると

「ちょっと聞きたいだけなんです」——このフレーズ、聞き飽きた。電話でも、訪問でも、SNSのメッセージでも、同じセリフが飛んでくる。ほんの数分で終わるような内容なら、こちらも苦にならない。でも現実は、法的判断や登記の可否、費用感まで話すことになる。結局、深いところまで踏み込まないと解決しないから、時間も心も削られる。ボランティアじゃないのに、ボランティアみたいになってしまう。

“ありがとう”はあるけど、“報酬”はない

「本当に助かりました」「ありがとうございました」——相談を終えたあとの言葉。感謝の気持ちは伝わってくるし、それは嬉しい。でも、そこに“報酬”は発生しない。たまに缶コーヒーを差し入れてくれる方もいるけれど、それで1時間の労働が相殺されるわけではない。気持ちだけでは、お腹はふくれない。いや、むしろふくれないからこそ、この気持ちの扱いに悩むのだ。

優しさが搾取されてる気がする午後3時

午後3時、集中して取り組みたかった登記案件を後回しにして、無料相談に応じてしまった。結果として、案件は明日にずれ込んだ。こういうとき、「ああ、自分の優しさが搾取された」と思ってしまう。被害者意識なんて持ちたくないのに、感情が勝手にそうなる。人のために尽くすのが仕事の本質、そう思っていたはずなのに、どうしてこんなにも虚しく感じるのだろう。

金銭じゃなくてもいい、せめて気持ちが欲しい

別にお金がすべてじゃない。でもせめて、少しでも“悪いな”という気持ちを見せてくれると、こちらも救われる。「無料なんですよね?」と当然のように言われると、心のどこかが冷たくなっていく。こちらから「今回のは無料ですが…」と説明するのも、もう何度目かわからない。感謝と共に、配慮もほしい。そんな日々の中で、人に期待しすぎてはいけないと学んだ。

無料相談が「無料奉仕」に変わる瞬間

最初は“情報提供”のつもりだった。けれど、気がつくと相手の人生相談まで聞いていたり、具体的な手続きをアドバイスしていたり。そこまで踏み込んでしまった時点で、それは「無料相談」ではなく「無料奉仕」になっていた。悪気はない、むしろ善意から始まっている。でも、気づけば「なんで俺ばっかり…」と独り言が漏れる日が増えてきた。

本当に困ってる人の相談は、やぶさかではない

本当に困っている人の話を聞くのは苦ではない。生活に困窮している高齢者や、複雑な家庭問題を抱えた方など、そういう人たちにとっての“無料”は救いだ。そのときは、使命感のようなものすら感じる。だけど、それを毎日求められては、自分が保たない。たまに力になれるからこそ意味があるのであって、日常になると自分がすり減ってしまう。

でも、それって“無料”でいいんだっけ?

ふと思う。「ここまでやったのに、これで“無料”っておかしくない?」と。弁護士や税理士だったら、初回30分相談無料、それ以降は有料です、と明確に線引きしている。自分もそうしようかと考えたことはあるけど、どうにも気が引けてしまう。結局、「まあ、今回だけは…」が習慣になってしまった。そして、自分だけが苦しい思いをしている気がする。

自己犠牲が美徳と思っていた過去

若い頃は、「誰かの役に立ちたい」という想いが強かった。報酬よりも、感謝の言葉や達成感が支えだった。でも、今は違う。生活があるし、時間も限られている。事務員の給料だって払わなければならない。自己犠牲はもう美徳ではない。むしろ、無理を続けることが周りに迷惑をかける。そんなふうに考えるようになった。

線引きができない性格の限界

「ここまでは無料」「ここからは有料」——そんな線引きができる人が、心底うらやましい。私は、どうしても相手の事情に引っ張られてしまう。気づけば、無料の範囲を超えて話を聞いてしまうし、資料を確認してしまうこともある。もう性格なんだろうな。でも、その性格が限界にきているのも事実。このままじゃ、自分が壊れてしまう気がしている。

事務員の前でため息が止まらなくなる日

今日も無料相談が長引いて、予定していた業務がずれこんだ。事務所に戻ってきたとき、事務員の目が少し呆れていた気がした。「またですか?」と声には出さないけれど、空気で伝わる。その空気に耐えきれず、ついため息が漏れる。そして、また自己嫌悪。事務員に気を使わせてどうするんだ。そんな思いが頭の中をぐるぐる回る。

「また無料だったんですか?」という目線

事務員からは、直接文句を言われたことはない。でも、「あの案件って、無料ですよね?」という確認の声には、なんとも言えない空気が混じる。私は「うん…まあ、しょうがない」と苦笑いするしかない。けれど、そのたびに、自分が甘いんじゃないかという気持ちになる。無料で時間を使うたびに、事務所の空気が重くなる気がする。これはもう、個人の問題ではなくなっている。

事務所全体の空気まで重くなる

無料相談を受ければ受けるほど、事務所の雰囲気が暗くなる。私の疲れが、事務員にも伝染してしまっている。仕事のペースも乱れ、他の案件にも影響が出る。「それでも相談者のために」と思ってやってきたけれど、誰のためにもなっていないんじゃないか。そんな気さえしてくる。自分の行動が、周囲を不幸にしている——そんな感覚に陥る。

でも、それでも司法書士をやめない理由

それでも、司法書士の仕事を続けている。愚痴は多いけれど、この仕事にしかできないことがあると思っているからだ。誰かの人生の節目に関われる仕事。法の力でトラブルを防ぎ、安心を届ける仕事。そう思える瞬間があるからこそ、なんとかやってこれた。自分が誰かの役に立っていると感じられる時間は、やっぱり大切なのだ。

感謝のひと言が、まだ心に響くから

「先生のおかげで、前に進めました」——たった一言で、救われた気持ちになることがある。報酬じゃない、承認でもない。心のこもった感謝の言葉。その一言のために、また明日もがんばってしまう。損得を超えたところで、人と人とがつながる瞬間。それがこの仕事の魅力なのだと思う。疲れはある。でも、まだこの道を歩いていける気がしている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。