疲れてるねと言われるたびに心がすり減った

疲れてるねと言われるたびに心がすり減った

疲れてるねと言われるたびに心がすり減った

その一言が刺さる日がある

「疲れてるね」って、悪気がない言葉なんだろうとは思うんです。優しさでかけてくれてるのも、きっとわかってはいる。でも、こっちの精神状態によっては、それがナイフみたいに突き刺さることもあるんです。最近、それが多くて。自分でも気づいてないくらい、疲れてる顔してるんでしょうね。でもそれを指摘されると、「ああ、やっぱり隠せてないんだな」って、なんだか情けなくなる。ふとコンビニのレジで「お疲れさまです」って言われた時でさえ、何とも言えない敗北感に襲われる自分がいます。

「疲れてるね」は気遣いじゃない時がある

言った人にとっては、ただの挨拶かもしれない。でも、受け取る側の心がすり減っていると、そんな言葉ですら攻撃のように感じる。特に、自分が「疲れてはいけない」立場だと勝手に思っている時は余計にそうです。僕のように一人事務所を切り盛りしている人間にとって、弱音は見せたら終わりだという気持ちがある。だから、「疲れてるね」と言われると、図星を突かれたような恥ずかしさと、どうにもならない悔しさが混ざってくるんです。

鏡の中の自分に言われた気がしてしまう

とある朝、髭も剃らず、シャツもしわくちゃのまま事務所に来てしまった日がありました。ふと洗面台の鏡を見たら、なんだか知らないおじさんが映っている気がしたんです。「誰だこいつ」と思ったその顔が、自分でした。そんな自分に対して、「疲れてるね」って言われてるような気がして、目を逸らしました。誰よりも自分が、自分の疲れに気づいていたんだと思います。

本当に疲れている時ほど言われたくない理由

心も体もギリギリの状態にある時は、誰かからの一言に耐える余裕すらありません。「疲れてるね」と言われること自体が、今の自分が“できていない”という烙印に感じてしまうのです。特に、何か失敗した直後や、トラブル続きの時期にはそれが顕著で、「やっぱり俺、ダメなんだな」って自己否定が始まってしまう。だから、本当に疲れている時ほど、その言葉を言われたくないし、受け止めきれないんです。

元気そうに振る舞うのが下手な自分

昔から、感情が顔に出やすいタイプでした。野球部時代は気合で乗り切れたけど、大人になるとそれじゃ通用しない。司法書士として、冷静で安定感のある対応を求められるのに、自分の顔には「しんどい」が出てしまう。笑っているつもりでも、相手から「疲れてますね」って言われると、やっぱりそう見えてたのかと落ち込む。元気そうに見せるって、実は一番難しいことかもしれません。

疲れた顔は誰のせいか

日々の業務に追われ、気づけば目の下にクマ、背中は重く、口数も減る。それでも誰かが代わってくれるわけじゃない。結局、全部自分でやるしかない状況が、顔に現れてしまう。疲れた顔は、自分が選んだ働き方の結果かもしれない。でも、だからってその責任を全部背負って笑えと言われても、正直もう限界なんです。

忙しさで擦り減る毎日

朝からメールと電話に追われ、午後は家庭裁判所への提出書類の確認。夕方には相談対応、そのあとに登記の打ち合わせ。そんな一日が終わる頃には、もう気力も残っていません。忙しいのはありがたいことだと自分に言い聞かせながら、心のどこかで「この生活、いつまで続けられるんだろう」と思っている。そんな自分に「疲れてるね」は、やっぱり辛い一言です。

誰にも頼れない職場環境

事務員さんは一人。とても頑張ってくれているけれど、任せられる範囲には限界があります。結局のところ、判断も責任もすべて僕に降ってくる。だから、疲れていても休めないし、誰かに愚痴をこぼすこともできない。「しっかりして見える」ことが、この仕事では求められるから。でも、本当は誰かに「ちょっと疲れた」と言いたいんです。

事務員さん一人に頼りすぎている自覚

頼れる人が一人いるというのは、本当にありがたい。でも、その一人に頼りすぎてしまうと、自分も相手も余裕がなくなってくる。ちょっとしたことでイライラしたり、感情的になってしまう自分に自己嫌悪すら感じます。本当はもっと感謝を伝えるべきなのに、それができないくらい疲れている自分が情けないんです。

自分だけが背負い込む日々

トラブルが起きた時、「全部自分で解決しなきゃ」と思ってしまう癖があります。相談しても「結局判断するのは自分」という現実がある以上、誰にも頼れない気持ちがどんどん募っていく。そうして疲れが溜まり、顔に出て、「疲れてるね」と言われる。この悪循環をどうにかしたいのに、なかなか抜け出せないのが現実です。

疲れてるねと言われたくなかった自分へ

昔は「疲れてるね」って言われることが、弱い自分を見透かされたようで嫌だった。でも今は少しだけ見方が変わってきました。それは気遣いかもしれないし、単なる観察かもしれない。でも、どちらにせよ、自分が頑張っていることの証なのかもしれない。そう思えるようになったのは、何度も心がすり減る経験をしてきたからです。

その言葉に隠れた優しさに気づく

言葉の裏にある気持ちを受け取る余裕がなかっただけかもしれない。家族でも恋人でもなくても、「疲れてるね」って声をかけてくれるのは、少なくとも気にかけてくれている証拠なんですよね。今は、ほんの少しだけ「ありがとう」と思えるようになってきた。そんな自分に、少し救われた気がします。

それでも前を向いて歩いていくために

司法書士として、男として、人として。まだまだ道半ば。疲れたら立ち止まってもいいし、誰かに支えてもらってもいい。でも、歩くのをやめたら終わりだというのもまた真実。だから今日も、ちょっと情けない顔を鏡で見て、「行くか」と一言。そんなふうにして、また一歩、前へ進むのです。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。