心の声を無視して走り続けた結果がこれです
忙しさがすべてを飲み込む
気づいたときには、1週間の予定がすべて埋まっていました。月曜から土曜まで相談と登記と調整、日曜は疲れすぎて動けない。それが今の僕の生活。司法書士という仕事は「断ると次がないかも」と思ってしまうところがあって、気づけば何でも引き受けるようになっていました。ありがたいことだと頭では思っているのに、心はどんどん乾いていく。そんな日々の繰り返しの中で、自分の本音に耳を傾ける余裕がどんどんなくなっていったのです。
気づけば朝から夜まで予定が埋まっている
ある月曜の朝、スケジュール帳を見て吐きそうになりました。午前は法務局、午後は相談2件、夕方から打ち合わせ。それが木曜までびっしり。金曜と土曜は定款の変更と相続の立会い。まるで“予定を消化するために起きている”ような生活でした。事務員さんも一人で、分担できる量にも限界がある。気づけば「余裕がない」が口癖になっていて、笑うことも、深呼吸することすら忘れていたのです。
依頼を断る勇気がない自分
一度だけ、ちょっと無理そうな依頼を「少し先でもいいですか」と聞いたことがあります。そしたら「じゃあ他を当たります」と言われ、それ以来断るのが怖くなってしまいました。相手に悪い気がするし、自分が役に立てるならと、つい全部抱えてしまう。だけどその積み重ねが、自分をすり減らしているとは、そのときは全然気づきませんでした。
頼られると断れない性格の損なところ
僕はもともと元野球部で、頼られると燃えるタイプでした。チームのためなら寝ずに雑用もやったし、声を枯らして応援もした。それが今の仕事にもつながっている気がします。でも、仕事は部活と違って無限じゃない。頼られることが重荷になることもある。断ることは悪じゃないのに、それを自分に許せないまま、時間だけが過ぎていきました。
心の声が聞こえないふりをしていた
「本当にこのままでいいのか」そう思う瞬間は何度かありました。でも、電話は鳴るし、メールは溜まる。考える間もなく動かなくちゃいけない。だから考えないことにした。考えると弱さが見えてしまいそうで。それでも、心の声って、ずっと聞こえなくなるわけじゃないんですよね。むしろ無視すればするほど、あとで大きな代償として返ってくる。
違和感にフタをして走り続けた日々
夜遅く帰って、コンビニ弁当を食べながら「これでいいのか」と思う。でも、「明日も早いし」で思考を止める。そんな日が何カ月も続くと、感覚がマヒしてきます。疲れているのに「もう一件いけるかも」とか、「あと少し頑張れば」と自分に言い聞かせる。でも、それって“違和感にフタをする”だけなんですよね。フタを開けたとき、もう中身は腐っていたりする。
「これでいいのか?」の問いを流し続けた結果
ある日、朝起きた瞬間に涙が出ました。何が理由なのかわからないけど、「行きたくない」「もうやだ」という言葉が頭の中にずっと響いていました。休む理由もないのに、立ち上がれない。あのときやっと気づいたんです。自分が自分の心の声をずっと無視してきたことに。その結果、何も楽しめなくなっていたことに。
ある日突然訪れる空虚さ
頑張って頑張って、その先に何があるかといえば、空虚でした。周囲から「忙しそうでいいね」「頼りにされてるね」と言われても、心の中では「それの何がいいんだ」と思ってしまう。努力はしてる。でも報われてる感じがしない。これは、ずっと心の声を無視してきた自分への“返事”なんだと思います。
独身であることに甘えてしまった生活
誰にも文句を言われない生活って、自由なようで危うい。僕は独身で、家に帰っても誰もいないから、どんな生活をしていても誰にも知られない。だからこそ、自分にどんどん甘くなって、気づけば心身ともにガタガタになっていました。寂しさも感じなくなるくらい、麻痺してしまっていたのかもしれません。
誰にも見られていないからこそ無理をする
家族がいれば「今日はゆっくりしたら?」と言ってくれるかもしれない。でも僕には誰もいない。だから、どれだけ働いても、誰にも止められないし、心配もされない。最初は「気楽でいいや」と思っていたけれど、いま振り返るとそれは“自分を壊しても気づかれない環境”でもありました。
食事も睡眠も適当なまま働き続ける日々
夜ごはんはコンビニ。寝るのは深夜2時。朝はギリギリに起きて、何も食べずに出勤。気づけばそんな生活が当たり前になっていました。若い頃は何とかなるけど、45にもなると体がついてこない。腰も肩もボロボロで、メンタルにもガタがくる。だけど「忙しいから仕方ない」で片づけていたのです。
気づけば心も体もボロボロ
ある日、頭が真っ白になって手が止まりました。登記のチェック中だったのに、何も入ってこない。これはまずいと思って病院に行ったら「過労です」と。何をしてるんだろう、自分は。誰のために、何のためにここまで無理をしていたのか。そんな問いだけが、頭に残りました。
あのとき休んでいればと思うことがある
もっと早く休んでいれば、もっと早く「助けて」と言えていれば——。そう思うことはたくさんあります。でも、そのときは“立ち止まること”が怖かった。怖がってばかりで、結局自分を追い詰めてしまった。後悔ばかりだけれど、今できることがあるとすれば、同じように頑張りすぎてる誰かにこの言葉を届けることかもしれません。
誰も責めないけれど誰も救ってはくれない
結局、限界を超えても周りは「お疲れさま」と言うだけで、本質的には誰も救ってはくれません。誰もが自分のことで精一杯なんです。それは仕方ない。だからこそ、自分の声は自分で聞くしかない。他人が心配してくれるのを待っているだけでは、遅すぎることもある。
自分の弱さを受け入れるという選択肢
最近やっと、「疲れた」と言えるようになりました。「今日は無理」と言うことも覚えました。弱さを見せるのは怖い。でも、それが本当の自分だとも思うようになりました。強がって倒れるより、弱くても立ち続けられる方が、たぶん大事。これは自分に対する“やっと許せたこと”でもあります。
気づくのが遅くても、遅すぎることはない
こんなふうに思えるまでに20年以上かかりました。でも、遅かったとは思っていません。今からでも、自分の心の声に耳を傾けていけば、きっとまた何かが変わるはず。この記事を読んでくれている誰かも、自分を責める前に、少しだけ立ち止まってほしい。僕ができなかったその一歩が、誰かの救いになりますように。