あの言葉が胸に刺さったまま仕事をしている

あの言葉が胸に刺さったまま仕事をしている

気にしなきゃいいのに気になる言葉

日々の業務の中で、他人の何気ない一言が心に残ることがある。忙しくて目が回るような日でも、その言葉だけはなぜか脳裏にこびりつく。私はもう45歳。司法書士としての経験もそれなりに積んだつもりだが、打たれ弱さは若い頃とあまり変わっていない。特に、否定でも批判でもないような「何気ない言葉」が、鋭く胸に突き刺さって抜けない。そんな日の午後は、仕事に集中しているふりをしながら、ずっと心の奥でその言葉を反芻している。

軽いひとことがずっと頭から離れない

つい先日、役所の職員に「このくらいのこと、先生なら当然ですよね」と言われた。もちろん社交辞令のような一言なのだろう。でも、「当然」ってなんだ?と思ってしまった。たとえミスなく処理できても、実際は神経をすり減らしながら綱渡りをしている。決して当然じゃない。でもその人にはそれが見えない。だからこそ、その「軽さ」が、こちらには重くのしかかる。そうやって頭の中でぐるぐる考えて、余計に疲れていく自分がいる。

言った人は覚えてないかもしれないけど

言葉を発した本人は、数分後にはもう忘れているかもしれない。でも私は、その言葉を夜になっても、風呂に入っても、ふとした瞬間に思い出してしまう。まるで芯の部分に棘が刺さったみたいに、ちょっとした拍子で痛み出すのだ。こんな繊細さは仕事には邪魔だと分かっている。けれど、だからといって無理に忘れようとするのも、また別の苦しさがある。思い出すたび、自己嫌悪に陥る悪循環がある。

心のどこかで何度も反芻してしまう理由

その根底には、「認められたい」とか「理解されたい」という、見栄と甘えが混ざったような気持ちがあるのだと思う。野球部時代、エラーをして怒鳴られても耐えられたのは、仲間の存在があったからだ。でも今はひとり。失敗は自分で処理するしかない。だからこそ、たった一言の評価に、自分の存在意義を求めてしまう。そういう弱さがあると、何気ない言葉がとても大きな意味を持ってしまうのかもしれない。

司法書士という仕事の重さと無言のプレッシャー

司法書士という肩書きは「先生」と呼ばれることも多いが、実際の業務は泥臭く、孤独で、神経をすり減らすものだ。特に地方でひとり事務所を構えていると、周囲との距離感も独特で、プレッシャーは常に自分の内側から湧いてくる。誰も見ていなくても、書類一枚に間違いがあれば、それは自分の責任になる。だから慎重になりすぎて、毎日が疲れる。誰かと気楽に愚痴を言い合えればいいのだけど、それすら難しい。

正解がない現場で一人判断を迫られる日々

登記の判断ひとつ取っても、教科書通りにいかないことばかり。登記官のさじ加減、依頼人の事情、書面に書かれた微妙な言い回し。それらを全部汲み取って、最後は「自分が責任を持てるかどうか」で決めるしかない。そういうときに、「それくらいは当然でしょ」なんて言われると、内心では「こっちは命削って判断してるんだ」と叫びたくなる。だが口に出せるはずもなく、心の奥に怒りと疲労が沈殿していく。

忙しさと孤独はセットでやってくる

一人事務所では、仕事が増えればそのまま自分の負担が増えるだけだ。事務員さんがいるとはいえ、責任の重みは肩にずっしりとのしかかる。忙しい時期ほど、昼ごはんを抜いて、夜にコンビニ弁当をかき込んで、深夜にミスを見つけて落ち込む。そんな繰り返しだ。家に帰っても静まり返った部屋が迎えてくれるだけで、テレビの音すら煩わしく感じるようになる。寂しいとかいう感情すら、もうどこかへ行ってしまった。

誰かの何気ない言葉がその孤独に追い打ちをかける

「独身だと気楽でいいよね」──ある知人が言ったその一言が、数日経っても頭から離れない。確かに自由はある。でも、気楽かと聞かれたら、正直「どこが?」と思う。毎日責任を抱えて、誰にも愚痴を言えず、仕事と向き合い続ける日々が気楽なわけがない。孤独を軽んじる言葉は、誰にも届かない叫び声を無視されたような感覚を残す。だからこそ、その言葉は胸に深く刺さってしまうのだ。

事務員さんの優しさに救われた瞬間

そんな中でも、事務員さんの存在が心の支えになっている。多くを語らないけれど、ふとした気遣いがこちらの心に刺さることもある。とくに忙しい時期、昼飯も食べずに作業していたときに、そっとおにぎりとお茶をデスクに置いてくれたことがあった。その瞬間、「ああ、見てくれてるんだ」と感じた。たったそれだけのことでも、救われた気持ちになることがある。

そっと差し入れられたコンビニのおにぎり

「先生、これ、お昼食べてないですよね?」と、気を遣わせてしまっていることが申し訳なくもあり、同時にうれしかった。高級な食事ではなく、コンビニのおにぎりひとつ。それが心に染みた。自分が誰かに見てもらえていると感じたのは、久しぶりだった気がする。言葉じゃない優しさは、変に気を遣わせず、静かに心を温めてくれるのだと思った。

言葉ではない優しさが刺さることもある

他人の何気ない一言に傷ついた経験が多いからこそ、逆に言葉を使わない優しさの方が、心にしみることがある。あのときのおにぎりは、たぶん一生忘れない。きっと本人はそこまで気にしていなかっただろう。それでも、私にとっては「もう少し頑張ろう」と思わせてくれる出来事だった。誰かに支えられていると感じるだけで、少しだけ前を向ける。

それでも「ありがとう」がなぜか言えなかった

感謝しているのに、うまく言葉にできなかった。照れくささもあったし、うっかり涙腺が緩みそうで、ぐっとこらえた。元野球部のクセで、感情を表に出すのが下手になってしまったのかもしれない。「ありがとう」と言えばよかったと、後になって後悔した。でも、もしかしたらその沈黙も、優しさの一部だったのかもしれない。無言のままでも、きっと気持ちは伝わっていたと、今は信じたい。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。