朝の依頼人は喪服の女
事務所の扉が開いたのは、いつもより少し早い時間だった。黒い喪服に身を包んだ女性が、一歩一歩静かに足を運び、椅子に腰を下ろした。彼女の目はどこか遠くを見ていて、だが一切の迷いはなかった。
「亡くなった方の遺言が気になりまして」と彼女は言った。「でも私の名前は、どこにもありません」
その言葉に、机の向こうでサトウさんが僅かに眉をひそめた。まるでルパンの登場に警戒する銭形警部のように。
遺言書に記されぬ名前
出された遺言書は、公正証書だった。形式に問題はない。だが確かに、彼女の名はどこにもなかった。財産の配分は淡々としていて、まるで感情の介在する余地がなかった。
「私は十五年一緒に暮らしていました」と彼女はぽつりと続けた。「婚姻はしていません。でも、ずっと一緒でした」
その言葉が、部屋の空気を少し変えた。登記簿に記録されない、でも確かに存在する“共有”の匂いがした。
サトウさんの冷たい推察
「では“内縁の妻”ということでしょうか」とサトウさんが尋ねる。彼女は首を振った。「いいえ、それほど立派な関係でもなかったかもしれません。ただ…心は共有していたと思っています」
「情に厚い相続人がいれば配慮もされたでしょうが、今回はちょっと違いそうですね」サトウさんの声は乾いていた。まるで『名探偵コナン』の灰原のような冷静さで。
「やれやれ、、、」僕は机に肘をつきながら、無意識に口に出していた。
登記簿にいない共同所有者
不動産の登記簿を開いてみると、確かに亡くなった男性の単独名義だった。共同所有ではない。形式的には彼女の言う「共有」は、法的には存在しない。
しかし、その部屋に彼女が暮らしていた痕跡は十分にあった。郵便物、家具、そして二人の写真。写っている彼女の笑顔は、登記簿の記載よりもよほど真実を語っていた。
それでも、法の前では空気のような存在になってしまうのだ。
恋人かそれとも共犯か
さらに気になるのは、彼女が“鍵を持っていた”ことだった。死後数日で部屋に入って遺品を整理したという。その行為は、遺族からすれば不法侵入にも映りかねない。
「まるでキャッツアイのようですね」と僕が冗談めかして言うと、サトウさんはあきれたように目を細めた。
「盗むものが“愛”なら、警察も困りますね」
故人が遺した小さな鍵
彼女はカバンから、小さな金庫の鍵を取り出した。「彼が、これだけは私に託してくれました」そう言って手渡された鍵は、手のひらにしっくりくる重さだった。
事務所にその金庫を持ち込み、慎重に開けた。中には日記のようなノートが一冊。
「これは、、、」ページをめくると、そこには彼女との日々が丁寧に綴られていた。日付と、思い出と、愛情と。
見落とされた共有持分の真実
ノートを読み進めると、彼女が亡くなった男性の生活に深く関与していたことがわかる。光熱費の支払いや通院の付き添い、介護の記録まで、全てがそこにあった。
「これは事実上の共同生活です」と僕はつぶやいた。「法律上の共有ではない。でも、この暮らしは確かに“持分”と呼べるものだ」
人は財産だけで結ばれるわけじゃない。心を通わせた時間もまた、ある意味“権利”を生む。
心の共有と法の限界
問題は、それをどう証明するかだった。遺言には彼女の名前はない。遺産分割協議で他の相続人が了承しない限り、法的には彼女の取り分はゼロ。
しかしこのノートがある。これが“彼の意思”だと証明できれば、調停の場で交渉の材料にはなる。
「…でも、難しいわね」とサトウさんが言う。「法と心、うまく交わることなんて、なかなかないわ」
遺品整理業者の証言
彼女が金庫を持ち出したことについて、近所の遺品整理業者に確認を取った。彼らは彼女を「ずっとそばにいたパートナー」と呼んでいた。
「実の家族より、あの人の方が毎日来てたよ」そう言ってくれた一言が、彼女にとって何よりの救いだった。
それを聞いたとき、彼女の瞳にうっすら涙が浮かんでいた。
やれやれ、、、謎は身近にあった
最後にノートの裏表紙に、故人の筆跡でこう書かれていた。「この部屋は彼女と僕のもの。名前は僕だけでも、心はふたりで住んでいる」
これで、全てが繋がった。登記は一人の名前でも、心の中では確かに“共有”していたのだ。
「やれやれ、、、なんとも法的には煮え切らないが、人間らしい話だな」
ノートに残されたもう一つの意思
彼女にノートを返し、「これがあれば、話し合いの場で希望はある」と伝えた。彼女は深く礼をして、静かに事務所を後にした。
「名前がなくても、残した人の思いがある。それが何よりの“遺産”ですね」
そうサトウさんが言ったとき、彼女も少しだけ笑っていた。
笑わない女と最後の一撃
「そういえばサトウさん、さっきの“キャッツアイ”のくだり、無視してませんでした?」
「はい、つまらなかったので」即答だった。
ぐぅの音も出なかったが、少しだけうれしかった。
登記不要だった愛の形
世の中には証明できない関係がある。契約も登記もされていない、それでも確かにあったという関係。
法の外側にこぼれ落ちるそれらを、拾い上げるのが僕たち司法書士の仕事かもしれない。
そんなことを思いながら、デスクの上を片付けた。
サザエさんに出てきそうな誤解
「ところで、あの女性を見ていたら、なんだか昔の“サザエさん”に出てくるマスオさんの後輩みたいだったな」
「そんなモブキャラ、記憶にありませんけど」とサトウさん。
ま、いつものことだ。
心に刻まれた共有の証明
その日の仕事を終え、帰り際に空を見上げた。曇りがちだった空に、うっすらと夕焼けが差していた。
何も残らなかったわけじゃない。目に見えなくても、彼女の心には彼との日々が確かに刻まれていた。
登記に残らなくても、証明できなくても、それはそれで十分じゃないか。
そして誰も署名しなかった
次の日、彼女から電話が入った。「ノートを見せたら、兄が納得してくれました。…ありがとうございます」
署名も押印もなかった。でも、心で署名された意思が通じたのだ。
「…それが一番だな」電話を切ったあと、独りごちた。
サトウさんの小言と温かい紅茶
「また紅茶に角砂糖入れすぎですよ」背後からサトウさんの声。
「甘い方が、疲れが取れるんだよ…って、あっつ!」
紅茶で舌を火傷しながら、なんとなく今日も悪くない一日だったと思った。
事務所に戻る静かな夕暮れ
西の空がオレンジに染まり、事務所の窓にも柔らかな光が差し込む。
「さ、明日の依頼人もまた面倒そうですよ」とサトウさん。
「やれやれ、、、」また、僕はつぶやいた。