傘だけが戻った日

傘だけが戻った日

朝の傘立てと見慣れぬ傘

その日も朝からしとしとと雨が降っていた。入口の傘立てには色とりどりの傘が並んでいたが、その中に一本、妙に目立つ傘があった。柄の部分が木製で、持ち手には金の装飾が施されていた。

「派手だな…」と独り言をつぶやきながら、俺はドアの鍵を開けた。誰の傘だろうかと一瞬考えたが、その時点では特に気にも留めなかった。

今日の午前中には新規の依頼人が来ることになっていた。いつも通り、サトウさんが淡々と予定をこなしていた。

雨の朝に現れた依頼人

約束の時間ちょうど、男が事務所に入ってきた。年の頃は三十代後半、黒いスーツに細身の体。だが目元だけは妙に落ち着かず、どこかを警戒するようにしていた。

「登記の相談を」とだけ言って、男は名刺を出すこともなかった。その態度に少し引っかかったものの、まずは話を聞くことにした。

だが肝心の相談内容は曖昧だった。古い土地の名義について「気になることがある」とだけ言って、詳細は後日連絡すると言って帰っていった。

忘れ物かそれとも伏線か

依頼人が出ていったあと、傘立てに派手な傘が残されていた。間違いなく、朝に俺が気になったあの一本だった。

「忘れ物でしょうか」とサトウさんが言ったが、その目はどこか鋭かった。「あの人、傘を持って入ってきたようには見えませんでした」

俺はその言葉に一瞬、動きを止めた。たしかに、玄関に入ってきたとき、彼の手には何も持たれていなかった気がする。

サトウさんの違和感

彼女は無表情ながら、疑いの視線を傘に向けていた。傘の持ち手をつまんで慎重に確認し、ひとこと、「やっぱり、変ですね」とだけ言った。

傘の中に小さな紙片が挟まっていた。封筒の切れ端のようなもので、何かの住所が書かれている。

その文字は明らかに震えており、急いで書いたような筆跡だった。「登記簿にある住所とは違います」と、サトウさんはすぐに気づいた。

静かな目線と一言の指摘

「この住所、空き家ですよ」とサトウさんがスマホを操作しながら言った。俺もかつて、相続登記の仕事で訪れたことがある場所だった。

「どうしてその住所をわざわざ書いて…?」俺がつぶやくと、サトウさんは一瞬だけ口角を上げた。「罠かもしれませんよ、シンドウ先生」

なんとなく、この件は面倒になりそうだと思った。やれやれ、、、また奇妙な事件に巻き込まれたらしい。

傘の色は記憶にない

後になって事務所の防犯カメラを見返してみたが、確かに依頼人は傘を持たずに入っていた。では、この傘はいったい誰のものなのか。

「まるで誰かが先に置いていったような…」そんなことを考えていた矢先、俺のスマホに一通の着信があった。

非通知だったが、声は明らかにあの依頼人のものだった。「傘を…見つけましたか?」その一言で、背筋がすっと冷えた。

行方不明の依頼人

翌日、依頼人に再度連絡を取ろうとしたが、電話はつながらなかった。住所も虚偽、名刺も渡されていない。

まるで最初から、依頼人など存在しなかったかのように、彼の痕跡はなかった。ただ、あの傘だけが事務所に残されていた。

「どうします?」とサトウさんに聞かれ、俺は黙って傘を見つめていた。何かが、確実に引っかかっている。

司法書士が探偵に変わる時

その日の午後、俺は自分の車であの紙片に書かれていた住所へ向かった。司法書士というより、まるで探偵漫画の登場人物のような気分だった。

雨は止み、傘の必要はなかった。だが、心の中には冷たい水滴が降り続いているようだった。

空き家の玄関には、確かに誰かが最近出入りしたような形跡が残っていた。封筒と同じ筆跡のメモが、ポストに挟まれていた。

傘が語る小さな真実

そのメモには、こう書かれていた。「名義が変われば、人も変わる」。たったそれだけの言葉に、意味深な匂いを感じ取った。

傘の柄に彫られた小さな文字も、登記の記録と同じ名だった。どうやら、この傘自体が遺産のような扱いを受けていたらしい。

俺たちは、登記にまつわるトラブルの裏に、もっと個人的で深い事情が絡んでいることを知ることになる。

タグに残された名前の痕跡

サトウさんが見つけたのは、傘の中に縫い込まれていた名前のタグだった。「ミカミ」と書かれていた。

「その名前、先生…あの事件の関係者だった気がしませんか?」とサトウさん。彼女の記憶力は刑事顔負けだ。

俺はパソコンを立ち上げ、数年前の登記記録を検索し始めた。まるで古びた図書館で、事件簿をひもとくように。

雨が上がった後の違和感

すべてが繋がったのは、それから数日後だった。元々あの家は遺産相続でもめていた。依頼人は、実の兄に名義を奪われた弟だった。

「名義が変われば、人も変わる」――それは兄への皮肉であり、最後のメッセージでもあった。

傘はその弟が生前に大事にしていたもの。兄はそれを、罪悪感から手放せずにいたのだろう。

商店街に残る防犯カメラの記録

警察に協力してもらい、駅前の商店街のカメラ映像を確認すると、事件当日、依頼人と似た男が映っていた。

だが決定的に違うのは、その男が傘を持っていたということだ。そしてその傘は、事務所に残されたものと一致していた。

つまり、あの日傘を置いたのは依頼人本人ではなかった。彼の「代わりに」誰かが来ていたのだ。

映っていたのは依頼人ではない男

映像に映っていた男は、数年前に土地登記に関わっていた司法書士事務所の元職員だった。記録には名前も残っていた。

彼は兄と共謀し、遺産相続に手を加えた可能性がある。つまり今回の依頼は、遺産の本当の所有者が最期に仕掛けた復讐だったのかもしれない。

だがその真偽は、もう確かめる術はない。依頼人は再び姿を現さなかった。

事件の結末と司法書士の独白

事件の後、傘は静かに警察へと渡された。証拠にもならず、持ち主も名乗り出なかったが、不思議な存在感を放っていた。

俺は机に戻り、何事もなかったように書類仕事を再開した。だが、どこか心に引っかかりが残っていた。

サザエさんのエンディングのように、すべてが元通りに見えても、どこかひとつ変わってしまった気がした。

雨の記憶と心の傘

人は、何かを置いて去ることで、痕跡を残す。名前を、言葉を、そして傘を。俺たち司法書士は、時にその痕跡を読み解く役目を担う。

「また変なことに巻き込まれましたね」とサトウさんが言う。俺は肩をすくめるしかなかった。

やれやれ、、、傘一本でここまで振り回されるとはな。次の依頼人は、せめて名刺くらい置いていってほしいものだ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓