朝の事務所に届いた封筒
差出人不明の印鑑届
月曜の朝、事務所に一通の封筒が届いた。送り主の欄は空白。裏を見ると、印鑑届とだけ朱書きされている。こういうのはだいたいロクなことがない。
僕は封筒を開け、書類に目を通した。確かに申請書の体裁は整っている。だが、なにかが引っかかる。なにかこう……ざらつく感じがあるのだ。
「シンドウ先生、これ……ちょっと変じゃないですか?」背後から冷静な声。サトウさんだ。
サトウさんの無言の疑念
彼女は黙って机の隅に積まれた以前の書類を引っ張り出した。まるで猫が毛糸玉を探すように。僕がポカンとしている間に、彼女はふたつの印鑑届を並べた。
「これ、筆跡が違います」
そんな一言で事務所の空気が凍る。やれやれ、、、また面倒なことになりそうだ。
違和感の正体はどこにある
筆跡鑑定のはじまり
司法書士が筆跡鑑定なんておかしな話だが、仕事柄多少の知識はある。僕はルーペを取り出し、字の抑揚、起筆の癖、朱肉のにじみ具合をチェックした。
あきらかに違う。前回の申請時と比べて「山田」の「田」の部分、ハネが妙に短い。何より、印影そのものが薄く、微妙に傾いていた。
「これ、スキャンして印刷した印鑑を切って貼ったものじゃ……?」
一致しない朱の押印
朱肉のにじみ具合と用紙の繊維、すべてが不自然だった。まるでルパン三世の変装のように“精巧だが完璧ではない”。
「なりすまし……でしょうか」
サトウさんの言葉が重たく響いた。こういう時だけは彼女の声がやけに冷たく聞こえる。
依頼人の言い分と食い違い
登記情報に見えた奇妙な修正
その午後、依頼人の山田氏が来所した。だが印鑑届を出した覚えはないという。机に並べられた二通の書類を見て、彼は顔をしかめた。
「こっちは確かに僕のだけど……こっちは違うな。ハンコも字も……気味が悪いね」
登記の写しを確認すると、なぜか先週の時点で登記名義人の住所が変更されていた。もちろん彼の意志ではない。
もうひとつの申請書
法務局に照会をかけると、別の司法書士の名前で提出された変更申請がヒットした。だが、記載された司法書士には心当たりがなかった。
「どうやら架空の司法書士を名乗ってるようですね」
サトウさんの手元には既に、その“司法書士”の職印を模した画像と、使用されていたIPアドレスの照会申請書まで用意されていた。
司法書士としての直感
過去の事例との奇妙な符号
以前にも似たような事件があった。戸籍を偽造して相続登記を進めようとした男。そいつも偽の印鑑届を使っていた。
違うのは、今回はすべてが郵送で進められていたこと。会わずに手続きができる今、それを逆手に取る輩が出ても不思議ではない。
「まるでサザエさんに出てくる“カツオのなりすまし作戦”みたいですね」サトウさんが珍しく冗談を言った。
やれやれ、、、またこのパターンか
僕はため息をついた。やれやれ、、、書類で事件を起こすやつには、だいたいパターンがある。だが、それに気づけるかどうかが勝負だ。
今回はサトウさんの冷静さに救われた。僕ひとりだったら気づかず、スルーしていたかもしれない。
元野球部として言うなら、彼女のリードが完璧だったってことだ。
サトウさんのひらめき
押印の位置が語る真実
印鑑が若干右にずれていたことに、彼女は着目した。実印の登録時には正確な位置に押す癖があるはず、との指摘だった。
確かに前の届出では中央に美しく押されていた。それが今回は微妙に右下がり。偽物を押した人間の“慣れてなさ”が透けて見えた。
「こういうズレって、よくあるんですよ。なりすましって意外と詰めが甘い」
机の下のカーボン用紙
さらに驚いたのは、封筒の中に微かに折れた黒い紙片があったこと。古いタイプのカーボン用紙だった。コピーで再現した印鑑の下書きに使った可能性が高い。
これを証拠として提出すれば、捜査が動く可能性は高い。つくづく悪知恵だけは働く連中がいるもんだ。
「昔の怪盗はもっと洒落てたんですけどね」僕がつぶやくと、サトウさんは鼻で笑った。
真犯人の正体
なりすました動機
調査の結果、山田氏の従弟が怪しかった。彼は借金を抱え、山田家の古い不動産を狙っていた。遺言もなく、山田氏に法定相続人が多いのを逆手にとったのだ。
住所変更と印鑑届を偽造すれば、あとは偽名義人を装って不動産を売却するだけ。紙の世界の犯罪、まさに司法書士泣かせである。
「今回は未遂で済みましたが……危なかったですね」
一通の手紙に隠された名前
決め手となったのは、提出書類に混ざっていたもう一通の手紙。封を開けると、そこにあったのは“従弟の名前”を記したメモだった。
どうやら提出直前、別の申請書と入れ違ったらしい。そこに“うっかり”の穴があった。まるで自滅だ。
うっかりは僕の専売特許なんだけどなぁ。
最後に残ったひとつの違和感
なぜ今 印鑑届だったのか
すべての手続きが整った後も、僕にはどうしても腑に落ちないことがあった。なぜこのタイミングだったのか。
年度末、法務局が混み合うこの時期に、目立つ方法で仕掛けるのは危険すぎる。もしかすると、別の登記がこの裏で動いているのかもしれない。
「調査は継続しましょうか」サトウさんの言葉に僕はうなずいた。
忘れ去られた相続登記の影
調べを進めると、未登記のまま放置されていた別の山林があった。おそらく本命はこちら。今回は陽動作戦だったのだ。
やっぱり、犯人は怪盗じゃなくて戦略家だったようだ。サザエさんのカツオとはわけが違う。
だが、こっちはこっちで“塩対応の名探偵”がいるのだ。負けてはいられない。
結末と反省
うっかりを救ったサトウさん
今回もまた、僕のうっかりをサトウさんがカバーしてくれた。おそらく彼女がいなければ、今ごろ詐欺は成功していた。
「先生、そろそろ“書類は疑え”って覚えてください」
「はい……」そう言いながらも、僕は密かに“名コンビだな”と自画自賛していた。
「先生 もっと気をつけてください」
サトウさんはコーヒーを差し出しながら呆れた顔で言った。「前にも同じようなことありましたよね」
「人間って学ばないものなんだよ……」
「せめて、学ぶふりだけでもしてください」ため息混じりのその一言に、僕は笑うしかなかった。
そして静かな午後
朱肉を拭いながら思うこと
静まり返った午後の事務所で、朱肉の蓋を閉める。きれいに拭かれた印鑑が、今日の事件を物語っているようだ。
事務所の窓から見えるのは、変わらない商店街と猫。だが、僕らは少しだけ違う世界を見ている。
やれやれ、、、司法書士ってのも探偵みたいなもんだ。