午前九時の通知書
朝の空気は湿っていた。エアコンの効かない事務所に、ぺたりと肌に張り付くような気配。そんな中、机の上に届いた一通の封筒が、僕の一日を狂わせた。
差出人は法務局。いつもの定型文かと思いきや、「訂正済み登記事項証明書在中」の文字が赤で記されていた。
サトウさんが見落とさなかった一行
「これ、ちょっとおかしいですね」
冷静に書類を見つめるサトウさんの指が、証明書の隅に引かれた訂正理由の欄を指した。「所有者氏名の誤記を訂正」——だが、そんな申出を僕は受けた記憶がない。
職権訂正、というやつか。だとしたら、何か見落としていることがあるのかもしれない。
謎の訂正済み登記事項証明書
証明書を手に取り、過去の記録と照合した。元の登記名義人は「三好豊」。だが訂正後の名義人は「三好登」。
一字違い、だがこれはただの誤字というには不自然すぎる。何より、訂正のタイミングが妙に最近で、かつ理由も簡素すぎた。
過去に訂正された覚えのない内容
記憶をたどっても、「三好登」という名は聞いたことがなかった。依頼人は確かに「三好豊」だったし、会話の記録も残っている。
それに、彼は「登」ではなく「豊」と言い切っていた。署名も印鑑も「豊」だった。
ではなぜ、この訂正が通ってしまったのか。まるで、最初からそれが本名だったかのように、整然と処理されている。
依頼人は姿を消した
確認を取ろうにも、三好氏はすでに連絡がつかなくなっていた。携帯は解約済み、自宅は空き家、郵便はすべて転送不要で戻ってくる。
まるで、誰かに姿を消すよう命じられたかのようだった。
不動産の名義を訂正した直後に姿を消すなんて、そんな偶然があるだろうか。
封書と印鑑だけが残されていた
彼の最後の痕跡は、うちの事務所に残された封筒だった。中には、「登記完了後に開封せよ」と走り書きされたメモと、訂正後の印鑑がひとつ。
それを見て、サトウさんが小さく首をかしげた。「この印影、豊さんのとは違います。字体も押し癖も別人ですね」
やれやれ、、、また面倒な話になってきた。
職権訂正のタイミング
訂正が行われたのは、登記完了の前日だった。つまり、正式な名義が「豊」になる前に、法務局が職権で「登」に修正したことになる。
だが、職権訂正には根拠資料が必要なはずだ。提出した覚えのない訂正資料はいったい、誰が出したのか?
その日、担当登記官は突然の異動で別庁に移っていたことも分かった。
同じ日に届いた裏の手紙
その日、もう一通の手紙が届いた。差出人不明。中には、「これは彼の意思ではない」とだけ書かれた紙切れ。
指紋も、痕跡も、何もなし。ただ、かすかに花の香りがした。何かの香水か、それとも仕掛けか。
いずれにせよ、この手紙の主は訂正の裏を知っているに違いなかった。
補正命令の影にある真実
事件は進展しなかったが、法務局の内部情報からひとつだけ不自然な点を掴んだ。
訂正の根拠となった住民票の写し——それが、実は補正命令の名目で別件として提出されたものだったのだ。
つまり、本来の登記とは無関係の書類が、裏で流用されたということだ。
登記官の不可解な言い訳
異動先に連絡をとった。登記官は口を濁した。「正式な訂正だったと思いますが……記憶にないですね」
記憶にない。それで済む問題だろうか? まるで、最初から覚えていないように言っていた。
僕の中に、妙な違和感が生まれた。あれは演技だったのではないか。あれは、芝居だ。
かすれた訂正理由と隠された関係
訂正理由の文字をスキャンし拡大した。すると、「本人申出により」と見えるはずの部分が「代人申出による」と読めた。
代人? 誰だ? 誰が彼のふりをして書類を出した?
印鑑照合と日付から、訂正申請書が提出されたのは、依頼人が病院に入院していた時期と一致していた。
赤インクの丸で囲まれた名前
書類のコピーにだけ残された、赤インクの手書きの丸。その中には、訂正後の名前「三好登」とだけ書かれていた。
まるで、それが正解だと言わんばかりに囲まれている。強調されたその文字に、何か重苦しい意志を感じた。
サトウさんは一言、「これは……故意ですね」とつぶやいた。
手紙の中の遺言と請願
封筒の底に、もう一枚紙が折られていた。そこには、依頼人の筆跡でこう書かれていた。
「この登記を誰にも渡すな。たとえ親族であっても」
そして、赤鉛筆でこう追記されていた。「あいつには、知られたくなかった」と。
偽名での登記申請に隠された想い
調査を重ねた結果、三好豊という名自体が通名で、本名が三好登であることがわかった。
彼は過去を隠し、別人として生きてきた。過去の犯罪歴、絶縁された兄弟、そして旧姓。
訂正とは、彼の本名への帰還だったのか、それとも誰かの復讐だったのか。
サトウさんの逆算推理
「シンドウさん、もし彼が偽名を使っていたなら、登記はすでに無効ですよね」
「でも、それを覆すには本人の意思が必要だ。彼はもう……」
「でも、訂正されたのは“本名”です。“嘘”から“真実”に直しただけなら、有効なまま残る」
その通りだった。サトウさんの言葉が、背中に冷たい汗を走らせた。
登記が正しければ人も正しいとは限らない
登記というのは、ただの記録だ。だが、その一文字が人生を狂わせることもある。
誰が何のために訂正を仕掛けたのか、それは分からない。だが、確かに一人の人生が、訂正の裏で塗り替えられた。
やれやれ、、、司法書士ってのも、探偵みたいなもんだな。
封印された約束と訂正簿の行方
最終的に、訂正登記は取り消されなかった。訂正の根拠は確かに存在し、形式的には瑕疵はなかった。
だが、その裏には、ひとつの約束が封印されたまま残された。
それは、僕とサトウさんだけが知る、小さな物語だった。
結末は静かに記載された
訂正簿には「完了」の印が押され、事件は終わった。
法務局は沈黙を守り、依頼人は戻ってこない。誰が嘘をつき、誰が守ろうとしたのかは、もう追う者もいない。
ただ、訂正されたその一行が、真実よりも重く、静かにそこに残ったままだった。