静まり返る登記所の午後
午後3時、雨音が窓を叩いていた。登記所の受付は閑散としており、控え室では古びた蛍光灯がチカチカと点滅している。私は申請書の束と格闘しながら、頭の片隅で「今日こそ定時で帰れたらいいな」と願っていた。
そんな時、ひとりの年配男性が訪れた。彼は相続登記の相談だと言い、畳んだ封筒を私に差し出した。中には、被相続人の死亡診断書と一通の委任状、そして…異様なほど真新しい印鑑証明書があった。
私は思わず眉をひそめた。何かが、妙だ。
依頼人が残した違和感
「この委任状、つい最近書かれたようですが…亡くなられたのは1年前ですよね?」 私が問いかけると、男は一瞬だけ目を泳がせた。だがすぐに咳払いをして、「生前に作成したものを最近見つけた」と答えた。
嘘のような本当の話は世の中にごまんとある。だが、これはそのどれでもなかった。
朱肉が、まだ乾いていた。
朱肉に潜む秘密
私は事務所に戻ると、サトウさんに書類を手渡した。彼女は無言で目を通すと、ピクリと片眉を動かした。「シンドウさん、この印鑑証明、フォントが違いますね」と言う。
言われてみれば確かに、明朝体ではなく、微妙に丸みを帯びた書体だった。細部に宿る違和感、それは名探偵コナンでよく見た“犯人の初歩的ミス”のようだった。
だがここでコナンくんが言いそうな名ゼリフは出てこない。ただの司法書士がうなるばかりだ。
不自然なゴム印
翌日、私は市役所の印鑑登録係に問い合わせた。問題の印影をFAXすると、向こうの担当者は電話口で一言、「あ、それ、登録されてないですね」と軽く答えた。
私の背筋に冷たいものが走る。登録されていない印鑑で作られた証明書が、どうして提出されているのか。
つまり——偽造された証明書である可能性が、極めて高いということだ。
旧字体と新字体の罠
さらにサトウさんが気づいた。「氏名の“齋藤”の“齋”が、旧字体じゃなくて簡略化されたものです。おそらく、ゴム印をパソコンで作ってますね。」
たしかに本来の氏名は戸籍上、複雑な“齋”の字で登録されていた。それをわざわざ違う字体で押すとは、ずさんな仕事だ。つまり犯人は、精巧なゴム印を作ったが、文字の細部にまで気が回らなかったのだ。
私の目に、一筋の光が差し始めた。
消された印影と帳簿のずれ
さらに調べを進めると、数か月前の相続登記に類似した印影が提出されていたが、帳簿からは削除されていた痕跡があった。なぜ削除したのか。誰が。
ゴム印で偽造された証明書を使い、なりすましで登記を進めた者が、途中でバレるリスクを察知して申請を取り下げたのではないか。
そこに浮かび上がってきたのは、依頼人自身だった。
サトウさんの冷たい指摘
「シンドウさん、昨日の依頼人の名前、司法書士検索で出てこなかったんですけど」 サトウさんの口調は、いつも通り淡々としている。
それはつまり、彼は司法書士でもなければ、正当な相続人でもない可能性があるということ。 やれやれ、、、また厄介な案件に巻き込まれたようだ。
元野球部の直感が、再び走り出す。
法務局資料室での発見
私は法務局の資料室に足を運び、過去の申請書類の写しを調べた。すると、以前に同姓同名で登記を試みていた別の人物の書類が見つかった。
サインの筆跡を比べると、今回の委任状と完全に一致していた。 つまり、彼は過去にも登記詐欺を試みていた常習犯だったのだ。
しかし今回は、偶然にも私のところに来たことで運が尽きたのだろう。
嘘をつく印鑑証明
後日、偽造された印鑑証明書は警察に提出された。偽証と有印私文書偽造の容疑がかけられ、男は取り調べの末、自白した。
動機は借金だった。相続登記を装って土地を自分の名義にし、それを担保に金を借りようとしていたという。
まさに、印影なき殺意である。
事件の結末とサトウさんのため息
事件が一段落し、事務所の空気がようやく落ち着いた。サトウさんは黙ってコーヒーを淹れ、私の机に置いた。
「まったく、ゴム印ひとつで人を騙せる時代ってのも怖いですね」 私は小さく笑いながら答える。「でも騙されたくないって気持ちが、俺を動かすんだよ」
すると彼女はため息まじりに、「もうちょっと最初から気づいてくれると、私の仕事減るんですけど」と言った。