会話が業務連絡だけの日々

会話が業務連絡だけの日々

気づけば「お疲れさま」しか口にしていない

毎日の仕事に追われる中、ふと気づくと、自分が職場で発している言葉が「おはようございます」「お疲れさまです」「これお願いできますか?」の三種類しかないことに愕然とする。かつてはもう少し雑談もあった気がするが、今では事務員との会話もほぼ業務連絡のみ。気まずさを感じることも少なくなったが、それはむしろ感情の鈍化なのかもしれない。こんな状態でいいのか、と自問する日々が続いている。

朝の挨拶もルーティン化していく

朝、事務所のドアを開けると、事務員さんが既に座っている。こちらが「おはようございます」と声をかけると、「おはようございます」と返ってくるが、どちらにも感情の起伏はない。天気の話もしないし、週末の出来事も触れない。まるで決められたセリフを読み上げるだけのようだ。こちらに余裕がないせいもあるが、たまには「昨日はゆっくり休めましたか?」といった一言でもあれば、空気は少し和らぐのかもしれない。

「おはようございます」に感情が乗らない日

最近では「おはようございます」と言う自分の声にすら、自信が持てなくなっている。どこか機械的で、心がこもっていない気がするのだ。挨拶すら義務のように感じるのは、疲れている証拠かもしれない。相手がそれをどう受け取っているかまでは分からないが、少なくとも「この人は私に関心がない」と思われても仕方ないような態度を取っている。仕事以前に、人間関係がすり減っていく感覚がある。

返事があるだけマシだと思ってしまう自分

それでも返事があるだけ、ありがたいのかもしれない。昔、一緒に働いていた補助者は、挨拶すら返さなくなって辞めていった。その時の無力感と居たたまれなさを思い出すと、今の沈黙がむしろ平和に思えてしまう。だが、本当にそれでいいのか?と自分に問いかける。事務所という空間がただの「作業場」になっていくのを、黙って見ているわけにはいかない。

会話の9割が業務連絡という現実

「これ、法務局に出しておきました」「印鑑、こちらです」——それが私たちの会話のすべてだ。雑談や冗談はほとんど交わされない。必要最小限の言葉だけで一日が過ぎていく。かつては、お昼にちょっとコンビニのお弁当の話なんかもしていたが、それもいつの間にか消えてしまった。話す内容が仕事だけになると、自然と心の距離も開いていく。それが常態化すると、戻るタイミングを失ってしまう。

「印鑑いただけますか?」で始まり「FAX送っておきました」で終わる

朝一番に「印鑑お願いします」と声をかけられ、昼に「これ、裁判所に出しておきます」と報告され、夕方に「FAX送っておきました」で締めくくられる。これが最近の会話のフルコースだ。たしかに仕事は進んでいる。でも、そこに人としての温かみは感じられない。効率よく仕事を回すことと、人間関係を大事にすることは、必ずしも両立しないのかもしれない。

沈黙の中に気まずさを感じなくなった頃

最初のうちは、この沈黙に戸惑いを感じていた。でも、慣れてしまった今では、静寂がむしろ心地よくさえ感じる時がある。それが危険だと分かっていながら、沈黙に甘んじている。たまに事務員さんが小さなミスをしても、注意する気力も湧かない。こうして会話も、関係も、少しずつすり減っていく。修復不可能になる前に、どこかで止めたい。

なぜこんな日々になったのか考えてみた

ふと立ち止まって、この状況がいつから始まったのかを思い返してみた。おそらくコロナ禍以降、仕事を効率化しようとする意識が高まり、人と人の接点が減っていったのが原因のひとつだと思う。また、自分自身も年齢と共に、新しい関係を築くことへの気力が減っているのかもしれない。単なる業務のやり取りだけで一日が終わってしまうことが、こんなにも孤独につながるとは思わなかった。

忙しすぎて気遣いが後回し

日々の業務に追われると、どうしても「まず仕事を終わらせること」が優先になってしまう。電話、メール、登記申請、相談対応……やることは山積みで、気づけば一日が終わっている。そうなると、相手にかけるひと言の優しさすら、頭の中から抜け落ちてしまう。決して冷たい人間になりたいわけではないのに、気がつけば「余裕のない人間」になっていた。

余裕がなくなると優しさも枯渇する

「最近、なんであんなにイライラしてるんですか?」と聞かれたことがある。そのときは自覚がなかったが、確かにここ数年、笑う回数が減った気がする。余裕がなくなると、心が閉じてしまう。優しさも思いやりも、自然と出てくるものではなく、意識的に持たないと失われていくのだと痛感する。たとえ一言でも、相手を思いやる言葉があるだけで、空気は変わるはずだ。

「効率化」の代償は心の断絶だった

業務の効率化はもちろん大事だ。でもその過程で、雑談や人間的な交流が「無駄な時間」として切り捨てられていくのは、違うと思う。昔の職場では、無駄話から得られる情報や安心感が、結果として仕事の精度を高めていた気がする。効率だけを追い求めた先には、心の断絶が待っていた。そう気づいた今、少しでも修復できる努力をしないといけない。

話しかけても反応が薄くなる悪循環

こちらが話しかけても、反応が薄いと、それ以上話しかけづらくなる。以前、「週末どうでしたか?」と何気なく尋ねたら、「特に何も」と素っ気ない返事が返ってきて、それ以来、雑談をためらうようになった。けれどそれは、相手も気を遣っていたのかもしれないし、単に照れくさかっただけかもしれない。そこで話をやめてしまうと、関係の糸は切れてしまう。

雑談が減ると、次第にしづらくなる

「雑談は気まずさをなくす潤滑油」とよく言うが、それは本当だと思う。以前はちょっとした冗談や軽口で笑い合っていたのに、今ではそれが嘘のように感じる。沈黙に慣れると、雑談を始めるハードルが上がってしまう。言葉が重くなるのだ。だからこそ、小さなことでも話す勇気が必要だと思う。たとえば「そのペン、書きやすいですか?」でもいい。きっかけを作ることが大事だ。

話さないことが気まずさを生まないという誤解

「何も言わなければ波風が立たない」と思っている自分がいる。でもそれは誤解だ。話さないことがむしろ不安を生み、疑念を生み、気まずさの原因になる。沈黙は無害ではない。だからこそ、自分の殻を破って話しかける努力を続けたい。小さな声かけが、崩れかけた人間関係を救う第一歩になると信じている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。