朝の事務所に舞い込んだ一通の謄本
秋の気配が事務所の隙間風に混ざって入り込んでくる朝、机の上に無造作に置かれた封筒に目が留まった。
差出人の名もなく、差し戻しのスタンプも押されていない。いつの間にか誰かがポストに放り込んだらしい。
中を開けると、登記簿謄本が一通。見覚えのない土地だったが、妙にその住所だけが心に引っかかった。
封筒の差出人に心当たりはなかった
最近の登記案件はほとんどが依頼を伴っている。こうして資料だけが先に届くことは珍しい。
しかも、その登記簿には一見して不可解な点があった。持分が奇妙に細かく分かれていて、共有者の名前に見覚えがあったのだ。
だが、すぐには思い出せない。モヤモヤした気持ちだけが残った。
登記簿から溢れ出す過去の匂い
その違和感は、古びたアルバムをめくったときのような、過去の空気がふわりと舞うような感覚だった。
登記簿の中に記された名義のひとつ「吉田美咲」。それは、大学時代に一度だけ食事をした女性の名前と一致していた。
いや、そんな偶然があるわけがない。だが、司法書士という仕事柄、偶然を信じるのは最も危険なことだ。
サトウさんの冷静な目
「この吉田って人、昔別の名義でも出てきましたよね?」
サトウさんが淡々とした口調で言う。相変わらず感情を挟まないその分析力は、AIよりも信頼できる。
僕が記憶に引っかかっていた名前の正体を、彼女は数秒で突き止めてしまった。
「この名義、どこかで見た気がします」
彼女はPCを叩きながら、過去の登記案件を掘り起こしていた。数年前の共有物件の案件で、一度だけ登場した名義人。
それも、当時の登記では「旧姓 吉田美咲」ではなく、「高山美咲」として記載されていた。
つまり、彼女は結婚して名前が変わった後、再び旧姓で何かを登記したということになる。
彼女の記憶力は検索エンジンよりも正確だ
司法書士事務所において、記憶は最大の武器だ。特にサトウさんの頭の中には、登記簿の断片が写真のように残っている。
まるで名探偵コナンのように、断片から真実を組み立てていく彼女の姿には、敬意すら覚える。
「じゃあ、この吉田は依頼者ではなく、事件の鍵を握る存在かもしれませんね」そう呟くと、彼女は頷いた。
恋という名の名義変更
持分の推移を辿っていくと、奇妙なことがわかってきた。吉田美咲の名義になったのは、ある男性からの贈与だった。
その男性の名は「滝口慎也」。過去に相続で一度だけ登記に関わった人物で、当時の記録には、彼が一人で遺産を受け取った経緯が残っていた。
そして、その滝口氏の遺贈登記が行われたのが、奇しくもバレンタインの日だった。
一度だけ会った女性の涙
その昔、吉田美咲と二人きりで飲んだ帰り道、彼女がふと涙をこぼしたことを思い出した。
理由を聞くと、「本当に好きな人とは、うまくいかないものね」とだけ答えた。
その相手が、もしかしてこの滝口という男だったのだろうか。
「所有権移転」には理由がある
贈与とは、法的には一方的な意思による所有権の移転だが、そこに感情がなかったとは思えない。
まるで最後の愛の証のように、滝口は彼女に土地を譲った。あるいは、それは贖罪だったのかもしれない。
登記簿は無言で、だが明確に、その関係性を物語っていた。
司法書士としてではなく男として
正直、気が重かった。登記の謎に関わることは日常だが、これは少しばかり心が疼く類の案件だった。
「やれやれ、、、俺もまだまだ甘いな」と呟いて、椅子に沈み込む。
サザエさんで言うなら、波平が突然恋愛相談を受けるような違和感だ。
動揺する自分を自覚した
男として、いや元・男の子として、思い出の中の彼女に今さら何かできるとは思っていなかった。
でも、真実を知りたいという思いは抑えられなかった。司法書士という立場にかこつけて、自分の好奇心を満たしたかったのかもしれない。
そういうところが、僕が独身の理由でもある。
封印された共有持分
調べを進めるうちに、もう一人の共有者「三谷麻美」という名前が浮上した。彼女もまた、過去に登記で関わった女性だ。
この三谷と吉田の間に、所有権の移転が行われていた。持分の入れ替え、その背景には何があるのか。
ただの資産整理とは思えなかった。まるで、感情のバトンリレーのようだった。
遺言と遺留分の間に眠る謎
滝口の遺言が存在する可能性が浮上した。もしそうなら、遺留分に配慮しないと無効になる可能性もある。
だが、遺言書はどこにも見つからない。あるいは、誰かが意図的に隠しているのか。
遺産相続の陰には、必ずと言っていいほど、誰かの思惑が潜んでいる。
猫が導いた調査の一歩
現地確認のため訪れた土地で、どこからともなく猫が現れた。
どこかで見たことがある模様だと思ったら、それはかつて吉田が飼っていた猫とそっくりだった。
彼女の姿はなかったが、その猫の存在が、彼女の居所を示しているようだった。
サザエさんのタマのように
その猫はまるで、サザエさんのタマのように自由気ままに歩き回るが、必要なときには必ず現れる。
僕はその猫を追いかけ、近くの古びたアパートに辿り着いた。
そして、そこで再会したのは、変わらぬ微笑を浮かべた吉田美咲だった。
最後の登記と別れの言葉
彼女は言った。「贈与された土地を手放したいんです。思い出も一緒に。」
僕はその手続きを淡々と進めながら、彼女の決断の重みを感じていた。
そして、最後に彼女は微笑んでこう言った。「もう恋は登記できませんね」。
でも記録は永遠に残る
登記簿は更新され、彼女の名義は別の名前に書き換えられた。だが、過去の記録は抹消されることはない。
そこには、確かに恋が存在した証が残っている。冷たくて正確な、だが何よりも正直な証拠として。
僕はファイルを閉じ、椅子にもたれた。「やれやれ、、、今日もまた、書類の裏に人生があったよ」。