見た目だけで判断されるもどかしさ
「先生って強いですね」と言われることがある。口では「そんなことないですよ」と返すものの、内心では違和感が渦巻いている。別に誰かと比べて特別強くもないし、むしろ些細なことで落ち込むタイプだ。ただ、仕事柄、冷静さを装いながら話す場面が多いからだろうか。言葉遣いや態度がそう見えるのかもしれない。でも、その裏では胃を痛めたり、夜中に何度も目が覚めたりしている。自分の不安や悩みが、相手には届かないのだなと思うと、少し寂しい気持ちになる。
頼られることが多いが本音では不安だらけ
司法書士という肩書きが、ある種の「安心感」を相手に与えてしまうのだろう。「先生に任せておけば大丈夫」と言われることも多いが、その言葉がプレッシャーに感じる日もある。登記ひとつでも、ミスが許されない仕事だから、確認作業は神経をすり減らす。事務員さんに頼る場面もあるが、最終的な責任はやはり自分に返ってくる。夜にふと「これで本当に良かったんだろうか」と独り反省会が始まることもある。見た目だけで「しっかりしてる」と思われるのは、正直しんどい。
昔から我慢が美徳とされてきた
田舎の元野球部、上下関係が厳しくて、どんなにきつくても「辛い」とは言えなかった。グラウンドでは水を飲むのも制限されるような時代を経験してきたから、「我慢すること=強さ」と思い込んでしまっている節がある。社会に出てからも、その癖が抜けない。体調が悪くても顔に出さないし、愚痴もなるべく言わないようにしてきた。でも、本当はしんどいときもある。昔の指導者に「お前は根性ある」と言われた言葉が、今も心のどこかで足かせになっている。
野球部時代の根性論が今も尾を引く
今思えば、あの頃の「気合と根性」は美化されすぎていたように感じる。怪我をしてもテーピングで無理やり出場し、倒れるまで練習させられたこともあった。それが大人になってからも染みついていて、「辛いなら我慢しろ」「他人に迷惑をかけるな」という考えが抜けない。その価値観のまま司法書士として働いているから、自分の限界を感じても、誰にも頼れない。そんな自分がときどき哀れに思えてくる。
強く見せてしまう自分の性格
正直に言うと、自分でも「弱いところは見せちゃいけない」と思っている節がある。依頼人の前で動揺したり、相談中に沈黙してしまうと不信感を抱かれる。だからこそ、無理してでも自信ありげに話してしまう。その結果、「先生ってしっかりしてますね」「強いですよね」と言われる。でもその度に、「いや、そうじゃないんだ」と心の中でつぶやいている。自分で自分に仮面をかぶせてしまっているのかもしれない。
感情を出すのが下手で誤解される
感情を表に出すのが苦手だ。嬉しくても照れて黙ってしまうし、悲しくても無表情でやり過ごす。そんな性格だから、人に「何を考えてるかわからない」と言われることがある。自分では心の中でぐるぐるいろんな思いが渦巻いているのに、それが伝わらない。だから、「冷静」とか「強い」と誤解される。たまに「もっと感情出したらいいのに」と言われるが、どう出せばいいか分からないのが本音だ。
本当は甘えたいけど甘えられない
たまには誰かに「大丈夫?」って聞かれたいし、肩の力を抜いて話せる場所がほしい。でも、大人になると、特にこの仕事をしていると、「甘える」という行為がどんどん遠くなる。事務員さんには負担をかけたくないし、家族も頼れない。友達も少ない。飲みに誘っても、「先生は忙しいでしょ」と気を遣われる。結局、どこでも「強い人」として振る舞うしかなくなる。
独り身だと誰にも見せられない弱さがある
結婚していたら、パートナーに弱音も言えるんだろうか。たまにそう思う。でも現実は独り。夕飯をコンビニで済ませ、テレビを眺めながら無言でご飯を食べる。そんな時間の中で、ふと涙が出そうになることもある。でも誰も見ていないから、泣けるのかもしれない。誰かがいたら、また「強いフリ」をしてしまう気がする。
強がりが生む孤独
「強いですね」と言われるほど、孤独になる気がする。強い人には、助けがいらないと思われてしまう。だから、困っていても誰も手を差し伸べてくれない。人の相談には乗っても、自分の相談はどこにすればいいかわからない。強さを装うことが、自分自身をどんどん追い込んでいると気づいたのは、かなり後になってからだった。
優しいねと言われるたびに切なくなる
優しいと言われるのは嬉しい。でもその優しさの裏には、言いたいことを飲み込んだり、無理に笑顔を作ったりしている自分がいる。誰かが泣いていたら「大丈夫ですか」と声をかけるけど、自分が泣くことはない。人に優しくする分、自分には厳しくしてしまう。そしてその優しさが、また「強さ」と見なされてしまう。なんだか報われない。
先生は大丈夫でしょの言葉に感じるプレッシャー
「先生は大丈夫そうですね」と言われるたび、「どこを見てそう思ったのか」と聞きたくなる。大丈夫なわけない。目の下にはクマができてるし、最近じゃ腰も痛い。土日も休めず、書類の山に囲まれて生活している。それでも「大丈夫」と言われるから、ますます弱さを出しにくくなる。もうこの「大丈夫な人」の仮面、脱ぎたいのに。
愚痴を言える場所が少ない
愚痴を言うと、「先生でも愚痴るんですね」と驚かれる。だから愚痴も控えてしまう。でも、人間だもの。誰だって愚痴りたいことの一つや二つはある。むしろ、愚痴を言える場所があるかないかで、心の余裕は大きく変わる。最近、そんなことを本気で考えている。
事務所では愚痴を飲み込んでしまう
事務員さんは気が利くし、本当に助かっている。でも、やっぱり上司としての立場もあって、愚痴はなかなかこぼせない。「またこんな面倒な案件きたよ」ってつい口にしそうになるけど、ぐっと飲み込んでしまう。自分の不満が、相手の士気を下げてしまうのが怖いのだ。
同業者との距離感が意外と難しい
同業者とは、仲が良いようで深くは踏み込まないことが多い。愚痴を言い合えるような関係を築くのは、意外と難しい。どこかで競争意識もあるし、油断すると「大変ですね」の一言で終わってしまう。だから、結局また一人で抱えることになる。
それでも誰かの役に立ちたい気持ち
こんなふうに、強がっては落ち込み、また強がって…というループの中にいる。でも、それでもやっぱり誰かの役に立ちたいという気持ちがある。依頼者が「助かりました」と言ってくれるとき、自分の中で何かが報われる。弱くても、頼りなくても、それでも必要とされているなら、もう少し踏ん張れる気がする。
弱さを隠しながらも続ける理由
たぶん、自分の中で「誰かの力になりたい」という想いが残っている限り、この仕事は続けられるんだと思う。強さって、無理を重ねることじゃなくて、自分の弱さを認めた上で、それでも前を向くことなんじゃないか。最近はそう考えるようになった。
ありがとうが支えになる瞬間
依頼者の「先生、本当に助かりました」の一言が、何よりも支えになる。強いですね、と言われるより、「ありがとう」の方がずっと心に響く。完璧じゃなくても、不器用でも、感謝されることがある。それだけで、また明日も頑張ってみようかなと思える。