奇妙な依頼人
その男は、まるで誰かの後をつけてきたように、そっとドアを開けた。午前九時半、まだコーヒーも飲み終えていない時間帯だ。スーツは安物、ネクタイは少し曲がっている。
「この登記簿を見てください」男は古びた登記簿謄本を差し出した。見慣れた体裁のその書類には、どこか妙な緊張感が漂っていた。
ページをめくる指先に微かな震えがあり、言葉少なにその理由を探ろうとする様子から、何かを隠していると直感した。
静かな午前と突然の来訪
その朝、サトウさんは珍しく遅れて出勤してきた。何でもコーヒーメーカーの掃除をしていたとか。「時間の無駄ですね」と言いながらも丁寧に拭いていたのは知っている。
そんな日常の延長に、急に差し込まれた一本の線、それがこの男だった。顔には焦燥が滲み、こちらの目をまっすぐには見ない。
私は一度、登記簿謄本に目を落とし、そして彼に訊いた。「これは、どこで手に入れたものですか?」
登記簿謄本に映る違和感
最初に目に付いたのは、住所欄にある微妙な字体の違いだった。筆跡鑑定でもしなければ分からないレベルだが、何かが違う。
所有者欄には、三年前に亡くなったはずの人物の名前が記されていた。しかも、その後に何の異動も記載されていない。
「これ、おかしいですね」サトウさんがぼそっと言う。いや、もうすでにその違和感が頭を離れない。
不審な物件の過去
物件は郊外にある平屋の古家。周囲は畑に囲まれ、人の出入りも少ない地域だという。私の記憶にも、その住所にまつわる案件はなかった。
サトウさんが古いデータベースを検索し始めた。例によって手は早い。数分と経たずして、古い相続登記の記録を見つけ出した。
しかし、その記録と現在の登記内容は一致しない。まるで誰かが途中で履歴を書き換えたような、そんな奇妙な空白があった。
サトウさんの冷静な検索
「この相続人、本当に死亡してますかね」サトウさんの口調は冷たいが、その言葉は鋭く現実を突く。
調査の結果、死亡届が提出されていたものの、火葬許可証や埋葬の記録がどこにも見当たらなかった。あるのはただの形式だけの死亡。
「サザエさんの波平さんが行方不明になって、なぜかカツオが家長になったような違和感ですね」彼女は皮肉めいた例えで言うが、その指摘は核心を突いていた。
前所有者の不可解な移転記録
さらに読み進めていくと、その所有者が生前に何度も所有権を移転していた記録が見つかった。しかも、売買金額は極端に安い。
土地の評価額に対して三分の一にも満たない金額での売却が数回。そのたびに名義人は変わっているが、全てがある一人の行政書士を通していた。
その名前に見覚えがあった。数年前に懲戒処分を受けた人物だ。いやな予感が濃くなる。
調査開始と司法書士の勘
地元の法務局で古い閉架記録を取り寄せた。記載ミスがあればすぐに分かる。司法書士の仕事は、過去と今を繋ぐ「文字の捜査」だ。
相続登記の初期に、二通の委任状が添付されていた。そのうち一通は全く異なる筆跡、しかも本来の相続人の署名ではなかった。
「やれやれ、、、」と私は天を仰いだ。いつものように事件の匂いがしてきたが、胃が痛む。
土地の境界が語る矛盾
現地調査を試みた。法務局の図面と現況が異なる。ブロック塀の位置が少しずれていたのだ。微妙なずれだが、確実に意図がある。
地目変更の履歴も不自然に抹消されており、古い筆界が復元されていなかった。普通の売買では考えられない杜撰さだ。
私は元野球部の脚力で、久しぶりに敷地の外周を歩きながら、地面に残る杭を探し始めた。
昔の公図に残された手がかり
昭和四十年代の公図には、現在と異なる筆界が記されていた。今の境界よりも、三メートルほど敷地が広い。
つまり、誰かがわざと境界を狭め、固定資産税を安くし、不動産価値を偽っていたのだ。
そして、そこにはかつて母屋とは別にもう一軒、小屋のような建物が記載されていたことが分かった。
浮かび上がる失踪事件
三年前、ある中年男性がこの地域で失踪していた。新聞にも小さく載った程度の扱いだったが、その人物の名前は登記簿の所有者と一致していた。
家族はその後、死亡届を提出し、相続を済ませた。だがその「家族」は、戸籍上の仮装関係で繋がれた偽装親族だったのだ。
誰もがいないと思ったその小屋には、土中から人骨が発見された。
登記簿の裏に消えた人物
DNA鑑定の結果、発見された遺体は三年前に失踪した男性本人と判明した。彼の所有する土地と建物は、偽装相続によって第三者に売却されていた。
行政書士はすでに国外逃亡。手続きの多くは真っ当に見せかけられていたが、すべてが仕組まれた虚構だった。
登記簿の一行一行が、静かに、しかし確実に真実を語っていた。
役所で見つけた一枚の証明書
事件を決定づけたのは、一枚の火葬許可証の「未交付記録」だった。死亡届は出ていたのに、遺体が火葬されていなかったのだ。
役所の女性職員が首をかしげながら言った。「こんなこと、普通はありえませんよ。火葬が先でしょって、母がよく言ってたんです」
その一言が、全ての歯車を噛み合わせた。
真実への接近
司法書士としての直感、サトウさんの冷静な分析、そして古い書類の積み重ね。それらが一つの真実へと導いていった。
決して派手な推理ではない。だが、地味な書類の山の中にこそ、真実は眠っていたのだ。
やはり現実は、名探偵コナンのようにはいかない。だが地道な仕事こそが人を救うこともある。
古い筆跡が語る偽造の影
筆跡鑑定の結果、署名は全て同一人物のものであると証明された。しかもその人物は、事件のキーマンである不動産ブローカーだった。
彼は、複数の不動産を格安で取得し、同様の手口で資産を手に入れていた。今回の件も、その一つに過ぎなかったのだ。
しかし、その偽造の中にたった一つだけ、癖のある「之」という字が決め手となり、警察の捜査が動いた。
土地の名義に隠された復讐
実は、土地の本当の相続人は、失踪した男性の隠し子だった。その子が復讐心から一連の情報を流し、事件が表沙汰になったのだ。
血は争えない、というが、まさにその通りだった。だが、彼もまた罪に手を染めていた。
「やれやれ、、、」私は事件簿を閉じ、窓の外を見やった。空は曇天、今日もコーヒーが冷めていた。
そして静かに幕を閉じる
事件は大々的には報じられなかった。小さな地域の、小さな不動産をめぐる陰謀。だが、それが人の人生を狂わせるのに十分だった。
サトウさんは何も言わずにファイルをまとめていた。いつものように、そっけないけれど、どこか優しい。
今日もまた、登記簿の片隅で、誰かの叫びが文字になっていた。
やれやれの一言と苦い余韻
「やれやれ、、、もうちょっと静かな日々を送らせてくれてもいいんだがな」
私のつぶやきに、サトウさんが小さく肩をすくめた。「司法書士なんて、みんなそんなもんですよ」
そして私は黙って、次の案件のファイルを開いた。