朝の来客と一本の電話
見慣れぬ男の訪問
朝9時を少し回った頃、事務所の扉が控えめにノックされた。スーツに皺を残した中年の男がうつむき加減で立っている。私は急いでコーヒーを飲み干し、来客用の椅子を勧めた。男は「家の名義変更をお願いしたい」とだけ言った。
聞けば、奥さんの名義を自分のものに変えたいのだという。離婚か、相続か、そこは濁された。私は詳細を尋ねたが、男は「事情があって」と繰り返すばかりで、目を合わせようとしなかった。
私はその時点で、何か腑に落ちない感覚を覚えていた。だが、司法書士というのは「怪しい」だけでは動けない。とりあえず必要書類を確認することにした。
ローン会社からの督促連絡
午後、別件の打ち合わせから戻ると、机の上に付箋が貼られていた。「○○信託から電話あり」とだけ、サトウさんの小さな字が記されている。私は電話をかけ直すと、思いがけない内容を告げられた。
「名義変更を希望されている物件、ローンの支払いが半年以上滞っているんですよ。差押寸前です」
…やれやれ、、、面倒な案件に首を突っ込んだようだ。私はひとまず男に再訪を依頼し、事務所の空気を入れ替えるべく、窓を大きく開けた。
奇妙な委任契約
依頼内容は不動産名義変更
男は再びやってきた。手には旧式の青いファイル。中には固定資産評価証明書、住民票、そして委任状。どれも形式としては問題ないが、私は一枚の紙に目をとめた。
委任状に記された日付が、ローンの延滞が始まる前の日になっていたのだ。だが、銀行の記録とは食い違っている。
まるで「延滞前に計画していた」ことを示したいかのような都合のいい時系列。違和感が胸の奥で膨らんでいく。
連帯保証人にまつわる違和感
ローンの記録を確認すると、連帯保証人の欄に別人の名があった。しかも、その人物はすでに3年前に亡くなっていると記録されている。
「これは…どういうことですか?」と問いただすと、男は少しだけ沈黙したのち、「…彼がすべての元凶なんです」と、意味深な言葉を漏らした。
私は静かにメモを取り始めた。司法書士として、ここから先は「登記」ではなく、「真相」の領域に入るのだ。
サトウさんの冷静な分析
滞納と差押の時系列
「この人、単に名義変更したいんじゃなくて、差押から財産を守ろうとしてるだけですね」サトウさんはそう言って、淡々と資料を並べ替えた。まるで刑事ドラマの分析パートである。
資料を重ねると見えてくるのは、連帯保証人だった人物が事故死した数ヶ月後にローンの延滞が始まり、男が離婚届を提出したという流れだった。
サトウさんはペンをくるくる回しながら、「これ、司法書士を使って名義を移したら、金融機関はどう出ると思います?」と私に問いかけた。
債務整理書類の矛盾
債務整理の書類も提出されていたが、そこには驚くべき矛盾があった。保証人が死亡していたにもかかわらず、生存を前提とした同意書が添えられていたのだ。
私は思わず「これは…偽造の可能性がある」とつぶやいた。文字は確かに似ているが、筆圧も運筆もまるで違う。
誰が、何のために、こんな小細工を?目的はただ一つ。家を守ることではなく、誰かを「はめる」ことだ。
借用書に隠された嘘
署名の筆跡が違う
私は旧保証人の親族に連絡を取り、以前の署名と比較することができた。その結果、偽造の可能性がほぼ確定した。
これで、男は誰かに成りすましをさせて債務整理書類を作成した疑いが濃くなった。だが、その理由がまだ見えてこない。
それはただの借金苦ではなかった。もっと深い、感情の底に澱のように沈んでいる何かが、この行動を突き動かしていた。
誰が何のために偽造したのか
調査を進めるうちに、かつての保証人が男の義兄であり、さらに過去に金銭トラブルがあったことがわかってきた。どうやら、保険金や遺産にまつわる話も絡んでいたらしい。
家族を装い、金を借り、保証人にした挙げ句、事故に見せかけて殺した可能性すらある。そして今、家を守るために名義変更を図ったのではない。家を舞台に復讐のラストシーンを演出しようとしていたのだ。
私は、いつの間にか犯罪の渦中に足を踏み入れていた。
復讐の連鎖が動き出す
旧友の裏切り
男の過去をさらに追うと、保証人だった人物が彼の親友でもあったことが判明した。共に事業を起こし、共に失敗し、そこからの関係が狂っていった。
事業に失敗した原因が保証人のミスだと、男は今も信じていた。いや、思い込んでいたのかもしれない。復讐の動機は、金ではなく「裏切られた友情」だったのだ。
サザエさんのマスオさんのように、何かを受け入れることができていれば――。私はそんな例えを脳内で浮かべていた。
家族を失った男の動機
そして、もう一つの理由。それは、家族を奪われた怒りだった。連帯保証を巡って家庭が崩壊し、妻と子が去った。
彼はその責任を保証人に押し付け、その死後も許せなかった。だから、家を守るために名義変更を図ったのではない。家を舞台に復讐のラストシーンを演出しようとしていたのだ。
だがそれが他人を巻き込み、死者の名をも利用する行為であることを、男は忘れていた。
そして真実が明らかになる
最後の登記簿に記された名
私は調査結果を警察に提出し、登記手続きは凍結された。その後、男は偽造書類提出の容疑で逮捕された。
最後の登記簿の写しには、誰の名前も記されていない空欄が残ったままだった。まるで、すべてを拒むように。
事務所に戻ると、サトウさんが何事もなかったかのようにコーヒーを淹れてくれていた。
やれやれ、、、と呟いた朝
私は静かに湯気の立つマグを手に取り、窓の外を見た。今日も雲は低く垂れ込めている。事件は解決した。だが、男の心にあった闇は晴れただろうか。
「やれやれ、、、」と、思わず呟いてしまう。サトウさんが小さく笑った気がしたが、気のせいかもしれない。
司法書士の仕事は、紙と印鑑だけで済むものではない。人の業と、心の迷路をも背負うのだ。そんなことを思いながら、次の依頼を待った。