兄が最後に開けた扉
午前9時、扇風機の風が生ぬるく感じられる朝だった。事務所の電話が鳴り、サトウさんが受話器を取る。数秒後、彼女の顔が珍しく険しくなった。
「兄が行方不明なんです。家が未登記で、誰の名義にもなってないって言われて…」 依頼人の女性の声は震えていた。事情がややこしそうなのは一瞬で察した。
夏の始まりと一本の電話
電話を終えたサトウさんが、静かにこちらを見る。「行きますよね」と無言でプレッシャーをかけてくる。
まるで波平に言われたカツオのように、渋々腰を上げた。やれやれ、、、休みの日に事件が舞い込むとは。
目的地は市街地から離れた山間の集落。未登記家屋があるという場所だった。
古びた家と未登記の謎
到着した家は、瓦がずれて木枠の窓がひび割れていた。まさに時間に取り残されたような家だ。
「この家、登記が見つからないんです」と依頼人は言う。調べてみても、法務局には存在の痕跡すらない。
その上、兄は数日前から音信不通だという。何かが妙に引っかかった。
不動産屋の違和感
不動産屋を訪ねてみると、過去にその家の取り扱いはしていないという回答だった。
ただ、応対した若い社員が目を泳がせていたのが気になる。どこかで聞いたような話だ。
「どうしてもお答えできません」と言った言葉が、逆に真実をにおわせていた。
登記簿にない存在
調査を進めると、かつて村で「書かれざる土地」として忌避されていた区域にその家があるとわかった。
昭和の頃、登記簿を整備する際に、なぜかその土地だけが対象外とされていた。
つまり、法的には存在しない場所に、兄は住んでいたことになる。
村人たちの沈黙と噂
近隣住民に聞き込みをするも、皆どこか遠慮がちで口を濁す。「あの家には触れるな」という空気。
「夜になると、誰も近寄らないんです」と言った老婆の言葉が頭を離れない。
まるで都市伝説のような話だが、なぜか現実味があった。
見つからない失踪届
さらに調べると、依頼人の兄について、警察にも行方不明届は出されていなかった。
「自分で出て行ったんじゃないかって思って…」依頼人の声は小さくなった。
だが、それならなぜ家の中に財布と携帯が残されていたのか。腑に落ちない点ばかりだった。
庭の地中にあったもの
ふと庭を見ると、土が不自然に盛り上がっている箇所があった。シロウト目にも最近掘り返されたように見える。
「まさかと思いますが…掘ってみましょう」とサトウさんがスコップを差し出してくる。
掘り起こすと、そこから出てきたのは、古い金庫だった。血の気が引く。
防犯カメラが捉えた夜
近隣の倉庫に設置された防犯カメラには、一週間前の夜、兄と思われる人物が家の前に立つ姿が映っていた。
その後ろ姿は、何かを決意したように家へと入っていく。そして、それが最後の姿だった。
映像の最後に、チラリと別の人影が映っていた。明らかに兄ではない、長身の男。
消えた兄の書きかけの手紙
家の中を再調査していると、机の引き出しから一枚の便箋が見つかった。文字は書きかけで途切れていた。
「もうすぐ、やっと終わる。あの土地も、名前も——」 最後の一文は破られていた。
兄は何かから解放されようとしていたのだろうか。
サトウさんの冷静な指摘
「金庫の型番、昭和四十年代のものですね。開け方なら私、知ってます」
カチリと音を立てて開いた金庫の中には、古い通帳、写真、そして他人名義の土地権利証が入っていた。
「この土地、依頼人の父親のものですね。兄が隠していた理由が見えてきました」とサトウさんはつぶやいた。
やれやれ、、、泥だらけの真相
結局、兄は土地の相続をめぐる過去のごたごたから逃れようとしていたらしい。だが、その過程で不正登記の疑いまで浮上した。
最後は失踪ではなく、自らすべてを清算するための失踪だったのだ。
やれやれ、、、いつもこんな面倒な話に巻き込まれるのは、なぜだろう。
登記のない家が語る真実
司法書士として、私は登記の有無が人の存在を決めるものではないと改めて感じた。
だが同時に、それが人の過去を封じ込める手段にもなるということも。
「登記って、正義じゃないんですね」と依頼人がぽつりと言った。
裁判所と供述調書と
その後、兄は無事に発見された。山奥の診療所で身分を隠し、静かに暮らしていたという。
供述調書によると、全てを忘れたかった、と。だが、記憶は忘れても、土地は記録される。
司法書士として、複雑な気持ちを抱えながら、報告書をまとめた。
扉の向こうに残されたもの
あの未登記家屋は、解体されることになった。存在しないはずの建物に、確かな過去があった。
兄の最後の扉の先には、後悔も、恐れも、そしてわずかな希望もあったのだろう。
私はそのすべてを登記簿に記すことはできない。けれど、確かにそこにあったと覚えておく。