依頼人は笑わない
その男は、午後五時をまわった頃に事務所へ入ってきた。薄暗い照明の下、無表情で黙ったまま椅子に腰を下ろすと、手に持った書類をそっとテーブルに置いた。
「登記の相談です」とだけ呟いたその声音には、何か怯えのようなものが混じっていた。
その時点で、私は嫌な予感がしていた。登記の話を持ち込む人間の目が、あんなにも泳いでいるはずがない。
ひび割れた土地の境界
依頼内容は、隣地との境界確認だった。境界杭が最近ずらされたらしく、隣人と揉めているという。
資料には、土地家屋調査士の立会図が添えられていたが、現地の写真と一致しない。
「これは……杭の位置が微妙に違いますね」と言うと、依頼人はますます表情を硬くした。
裁判記録にない記憶
私は過去の裁判記録を調べた。以前この土地にまつわる境界トラブルがあったが、被告の名前が今とは違う。
妙な違和感を覚えて、旧登記簿を取り寄せてみた。すると、そこには“同一人物とは思えない名義人の履歴”が存在していた。
まるで、意図的に履歴を消したかのような、不自然な空白期間がある。
サトウさんの沈黙
その晩、サトウさんは珍しく何も言わずに黙っていた。無言でコーヒーを机に置くと、すっと自席へ戻っていった。
その態度が逆に気になって、「何か気づいたのか?」と尋ねると、彼女は一言だけこう答えた。
「あの人、表札に名前出してませんよ。隣人も、です」
誰が境界杭を動かしたのか
境界杭は誰かが手を加えなければ、勝手に動くものではない。だが、隣人も杭の位置に不満を持っていた。
つまり、両者ともが“自分の正しさ”を主張し、互いに動かした可能性がある。
それなのに、どちらも警察沙汰にはしていない。その理由は……両者とも、何かを隠している?
二年前の隣人の行方
ふと、過去の地番履歴を洗い直した時、隣地の登記人が二年前に急に入れ替わっていることに気づいた。
前の所有者の登記抹消原因は「売買」。だが、金銭の授受が記録されていない。
これは贈与か、もしくは虚偽登記の可能性もある。となれば、不正な登記は今も続いていることになる。
登記官の過去と偽名
さらに調査を進めると、数年前に異動した登記官が、実は以前に別の土地で不正関与を指摘されていた人物だと判明した。
名前を変え、別人として再任されていたが、情報を洗っていたら旧姓の履歴がひょっこり出てきた。
「やれやれ、、、まるで昭和の探偵漫画みたいな展開だな」と思わず漏らしてしまった。
アパートの郵便受けが告げるもの
私は依頼人の住所を訪ねた。だが、ポストには彼の名前どころか、何も書かれていない。
まるでそこに“誰も住んでいない”かのような雰囲気。だが、近所の住人によれば、夜な夜な誰かが戻ってきていたらしい。
鍵の開閉音、足音、しかし姿は見せない。まるで、アパートの中に“もう一人の依頼人”が潜んでいるようだった。
元野球部の勘は当たらない
「あそこが怪しいと思ったんだけどな……」現地調査から戻る途中、私は悔しそうに呟いた。
昔からそうだ。野球部時代でも、変化球を読むと外す。勘というものにはまったく縁がない。
だからこそ、地道に登記資料とにらめっこするのが私の仕事だ。地味だが、間違いは少ない。
やれやれ、、、また書類からか
サトウさんが机の上に分厚いファイルを無言で置いた。過去の所有者の契約書と、引渡確認書だった。
私はため息をつきながら書類に目を通す。「やれやれ、、、また紙の山から真実を掘り起こすのか」
だが、その中に一通だけ、筆跡の違う覚書が紛れていた。登記の名義人とは別人によるものだった。
小さな手帳と大きな嘘
覚書には、境界に関する非公式な合意が書かれていた。「隣地に迷惑がかからぬよう、杭は元の場所に戻すべし」と。
これは決定的だった。つまり、依頼人自身が杭を動かしたことを自覚していたのだ。
だが、どうしてそれを今さら問題にした?サトウさんがポツリと呟いた。「罪悪感か、あるいは……脅された?」
正しいはずの登記に潜む影
調べを進めるうちに、依頼人は不正に土地を譲り受けた“仮名人間”であることが判明した。
偽名で登記された所有権移転、実体のない売買契約、そして謎の脅迫状。全てがつながり始める。
結局、隣人とのトラブルは“登記が正しい”ことを逆手に取った演出だったのだ。
サトウさんの一喝
依頼人が再び現れた日、サトウさんは黙っていた。だが私が口を開こうとした瞬間、彼女が先に言った。
「この書類、すでに警察にもコピーを送ってあります。自首されますか、それともここで隠し通しますか?」
その静かな声に、依頼人は青ざめた顔で席を立ち、何も言わずに去っていった。
犯人は意外な隣人だった
数日後、隣人が逮捕された。理由は恐喝未遂。依頼人の過去を握り、登記に関する弱みを盾に脅していたという。
登記簿に現れない“人間関係”が、真の問題だったわけだ。
「書類にすべて書いてあれば楽なんですけどね……」と私がぼやくと、サトウさんは無言でファイルを閉じた。
土地の権利より大切なもの
今回の一件で、登記の正確性以上に、人間の弱さと強かさを見た気がした。
それでも、我々司法書士は書類に書かれたことしか扱えない。だが、その裏に何があるのか、想像することはできる。
「人の記憶も登記できたら楽なんですけどね」サトウさんがふと呟いた言葉が、妙に沁みた。
解決と、ほんの少しの余韻
その夜、久しぶりにコンビニで酒を買った。部屋でひとり、缶チューハイを開けながら事件を振り返る。
「やれやれ、、、やっぱり書類と人間は別物か」と独り言を漏らし、空になった缶を机の隅に置いた。
事件は終わった。でも、人の心は登記されない。だから、また次の謎がやってくる。