ちょっといいですかって声に今日もまた削られていく

ちょっといいですかって声に今日もまた削られていく

止まらない「ちょっといいですか」の連鎖

「先生、ちょっといいですか?」——この一言を一日に何回聞いているだろう。気軽に話しかけられる存在であることは悪くない。むしろ、相談されるということは信頼されている証拠でもあるのだろう。でも、それが何度も何度も続くと、気がつけばこちらの仕事は止まっている。集中力が切れて、段取りも狂い、結局そのリカバリーで残業ということも珍しくない。悪気のないその一言に、今日もまた、少しずつ自分の時間が削られていく感覚がある。

雑談の皮をかぶった緊急相談

「ちょっと雑談でも」と言われたから軽く相槌を打ったら、ふたを開けてみれば相続の相談だった。冗談じゃない。こっちは午前中に登記申請を終わらせたいと思ってたんだ。でも目の前の人は、「あの、兄が勝手に家を売りそうなんですが…」と話し始める。どこが雑談だ。困っている人を見捨てるわけにはいかない。それがこの仕事だと分かってはいる。でも、予定も心も乱されるたびに、自分の“やるべきこと”が置き去りになっていくのを感じてしまう。

その5分が仕事のリズムを壊す

「ちょっとだけなら」と気を許すと、どんどん話が深くなる。最初は5分のつもりが、いつのまにか30分。気がつけば、午前中にやるはずだった登記簿チェックが午後にずれ込む。こうなるとリズムが完全に崩れて、焦りが積もっていく。僕はテンポで仕事をするタイプだ。野球部時代のノックのように、一定のリズムで処理することで集中力を維持してきた。それが崩れると、とたんにパフォーマンスが落ちる。たかが5分、されど5分なのだ。

結局、夜に詰め込む羽目になる

そして、そのツケはいつも夜にやってくる。事務員さんが帰った後、誰もいない事務所で静かに作業を続ける。残業というほどの時間じゃないかもしれないが、気持ちはずしんと重たい。昼間に何度も聞いた「ちょっといいですか?」が、まるで耳鳴りのようにリフレインしてくる。しかも、誰に文句を言えるわけでもない。この孤独な作業時間が終わるころには、明日へのやる気も削られている。そんな夜が、気づけば日常になっている。

事務所は静かでも心は休まらない

地方の小さな司法書士事務所。通りの音も少なく、周囲はのどかな雰囲気だ。表面的にはとても落ち着いて見える。でも、事務所の中ではいつも何かが渦巻いている。期限の迫る案件、確認待ちの書類、返ってこない連絡、そして突発の相談。誰かに助けてほしいと思いながらも、結局ひとりで抱えてしまう。それが日常になっている。静けさはある意味、責任の重さを一層際立たせる。心が休まる暇がないとは、こういうことかもしれない。

ひとりきりの責任の重み

結局、最終的な判断を下すのは自分。責任の矢印がどこを通っても、最後は自分に向かってくる。事務員さんは頼れる存在だが、法的判断や対外的な対応までは任せられない。それに、事務員さんの前ではなるべく愚痴は言いたくないという変なプライドもある。元野球部の性分かもしれない。「自分のプレーに責任を持て」というあの教えが、いまもどこかで邪魔をする。だが、肩に乗る荷物は確実に重くなっている。

頼られるのはうれしいけど、しんどい

「先生にしか頼れないんです」なんて言われると、やっぱり応えたくなる。性格的に断れないし、何より頼られるのはうれしい。でも、頼られすぎると息が詰まる。自分のことは後回し。たまの休みにも電話が鳴る。友達とも疎遠になって、誰かに弱音を吐ける機会も少なくなった。これがプロということなのかもしれないけど、少し寂しい。本音を言えば、「誰か、こっちの話も聞いてくれよ」と思ってしまうのだ。

言葉にできない疲労の正体

司法書士という職業には、独特の疲れがある。それは肉体的なものでも、知的労働の限界でもない。もっとこう、じわじわと心を浸食してくる種類の疲れだ。達成感や誇りと引き換えに、自分の内側が削られていくような感覚。これをどう表現すればいいか分からない。何かが抜けていくような、うまく笑えなくなるような、そんな感じだ。そしてそれは、誰にも気づかれずに進行していく。

「気軽な相談」が積もって山になる

「そんなにたいしたことじゃないんですが…」という前置きが、逆にこっちの警戒心を呼び起こす。たいしたことじゃないならメールで済むだろう、と内心突っ込む。だがそういう話に限って、実は奥が深い。そして話が終わるころには、何らかのタスクが増えている。「ちょっといいですか?」が一日五件あるとすれば、それだけで仕事は大きく膨らむ。無意識のうちにそれを背負い、終わらない仕事に囲まれている。

元野球部の体力もメンタルには効かない

高校時代、猛暑の中で何百本もノックを受けてきた。あのころは、「しんどい=気合いで乗り切るもの」だと思っていた。でもこの仕事のしんどさは、気合いではどうにもならない。どれだけ体力があっても、心が折れかけたら立ち直れない。特に独身で、一人暮らしをしていると、家に帰っても話し相手がいない。結局、全部をひとりで抱え込んで、寝る前にため息をついて終わる。そんな日が続くと、さすがにしんどい。

愚痴をこぼす場所もなく

愚痴をこぼす相手がいないというのは、地味にきつい。仕事の話をできる友人は少なくなり、職場の人間には気を遣う。親にも心配をかけたくない。そうなると、もうノートか心の中に溜め込むしかない。SNSで吐き出す気にもなれない。どこかで誰かが見てるような気がして、余計に言えなくなる。だからこうして、文章にしているのかもしれない。書くことで、自分の存在を確かめているのかもしれない。

事務員さんには言えないこともある

事務員さんは本当によくやってくれている。でも、だからこそ気を遣う。給料のこと、売上のこと、事務所の未来。そういうことはなるべく見せたくない。自分の弱さを見せるのが怖いのか、見せたら崩れてしまいそうなのか、よく分からない。ただ、気を張り続けるのは苦しい。そしてそれがまた、余計に孤独感を深めていくのだ。

モテない独身男の寂しさと向き合う

若いころは「仕事が恋人」なんて強がりも言えた。でも今はそんなセリフすら虚しい。休みの日に誰とも会わず、スーパーで半額弁当を買って帰るだけの休日。笑えるようで笑えない。たまに飲みに行っても、話す相手がいないから結局一人。結婚できなかったことを悔やんでるわけじゃない。でも、「帰って話せる人がいる」というだけで救われる夜も、あるんだろうなと思う。

それでもやめない理由

こんなにしんどくて、孤独で、報われているのかよくわからない仕事。でも、やめようと思ったことは一度もない。むしろ、やればやるほど、奥深さと人の温かさに気づかされる仕事だと思う。苦しいけれど、必要とされている実感がある。それが、唯一の支えかもしれない。だから今日もまた、「先生、ちょっといいですか?」に振り向いてしまう。

誰かの役に立っている実感はある

ときどき、「先生にお願いしてよかったです」と言われることがある。その一言が、何日分もの疲れを一気に吹き飛ばす。登記が完了したときのお礼の言葉、相続の手続きを終えたときの安心した表情。そういう瞬間に、この仕事の意味を思い出す。自分のやっていることが、誰かの人生の一部になっている。そんな風に思えるから、続けていられるのだと思う。

同じように踏ん張っている人へ

この文章を読んでくれている誰かも、きっと同じような疲れを抱えているのだろう。立場や仕事は違っても、責任の重さや孤独は、共通するところがあると思う。「疲れた」「つらい」と言える場所がないのは、決してあなただけじゃない。自分もそうだ。一人じゃないと思えるだけで、少し心が軽くなる。だから、声を大にして言いたい。「みんな、よくやってるよ」と。

一言の「わかる」で救われる

誰かが、「その気持ち、わかるよ」と言ってくれるだけで、不思議と心が軽くなる。そんな言葉を交わせる場所がもっとあればいいのにと思う。文章でもいい、こうして読んでくれた人が、「自分だけじゃないんだ」と感じてくれたら、それだけで書いた意味がある。だから、これからも愚痴を書いていこうと思う。独身で、地方で、司法書士として、今日もまた削られながら、生きていく。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。