補正通知のフォルダがパンパン

補正通知のフォルダがパンパン

気づけばフォルダが補正通知だらけ

司法書士として仕事を続けていると、年々「補正通知フォルダ」の存在感が増してくる。最初の頃は1週間に1通届けば多い方だったのに、今では1日に複数件。気がつけば、フォルダ名の横に(99+)と表示されている。これはメールボックスではなく、現実のタスクの山だ。慣れれば処理が早くなるかと思いきや、実際には逆。慣れてきたからこそ、細かい部分まで気になってしまって時間がかかる。「こんなはずじゃなかった」と毎朝つぶやきながら、今日もまたフォルダを開く。

朝一で開くのが怖くなるフォルダ

朝、デスクに座ってまずするのはパソコンの起動。そしてメールチェック。そこまではいい。でもその次、補正通知のフォルダを開く瞬間、胃がキュッと縮む感じがする。まるで受験生が答案用紙をめくるときのような緊張感。「頼むから今日は来ていませんように」と祈りながらクリックする日々。だが、現実は非情だ。だいたい何かしら来ている。しかも、なぜ今?と思うような案件に限って補正が入っていたりする。これがまた、精神的にこたえる。

「また来てる…」とため息が漏れる瞬間

補正通知を見つけたときの第一声は、たいてい「またか…」だ。声に出すこともあるし、心の中でつぶやくこともある。どちらにせよ、気分はどんより。書類が戻ってくるたびに、自分が否定されたような気持ちになる。「あれだけ確認したのに」「提出前に時間かけたのに」。そんな思いが一瞬で崩れ去る。そしてまた、同じ書類を開き、確認し、修正し、提出し直す。このループが地味に効いてくる。

溜まり続ける通知、減らないプレッシャー

補正通知が1件ならまだしも、2件、3件と増えるたびに、心の余裕がどんどん削られていく。処理をしないと次の仕事に進めない。でも、処理しても処理しても終わらない。通知の数は減っても、精神的なプレッシャーは減らないのだ。しかも、補正内容が抽象的だったりすると、何を直せばいいのかすらよくわからない。そんなときは、自分の日本語理解能力すら疑ってしまう。

一件一件が神経を削る作業

補正通知に向き合う作業は、決して単純な「直すだけ」のものではない。書類の内容を再度読み込み、何がいけなかったのかを把握し、訂正案を考える。そして、その訂正が通るかどうかもわからない。まるで毎回、小さな裁判をしているようなものだ。書面ひとつで完結することは少なく、電話で役所とやりとりしたり、他の書類も引っ張り出してくる必要が出てくる。時間も神経も使うから、1件終わっただけでぐったりしてしまう。

添付ミス・誤字・様式のズレ

補正の理由の多くは、些細なミスだったりする。PDFの添付漏れ、誤字脱字、記載様式の違い…。事前にチェックしているつもりでも、なぜか見逃してしまう。人間だから当然といえば当然だが、それが許されないのがこの仕事の辛いところ。「あぁ、ここか…」と見つけた時には、悔しさと同時に「またやってしまった」と自己嫌悪に陥ることもある。疲れているときほど、こういうミスが多くなるのがまた厄介だ。

自分のせいじゃなくても責任を背負う

中には、こちら側の問題じゃないこともある。元々の資料に問題があったり、依頼者の説明に齟齬があったり。でも、それでも補正通知が届くのは自分のもと。誰が悪かろうが、提出者としての責任は逃れられない。理不尽だと思いながらも、誰にも文句を言えない。こういう状況が重なると、だんだん無力感が積もっていく。

補正通知に振り回される日々

本来であれば、こちらがペースを握って進めるべき案件が、補正通知によって強制的にコントロールされてしまう。計画していたスケジュールは簡単に崩れ、「今日中に片付けよう」と思っていた仕事がどんどん後ろ倒しに。急ぎの対応を求められる中で、補正通知が新たな山場として立ちはだかる。その連鎖が一日を一気に疲弊させる。

本来やるべき業務が後回しに

補正対応というのは、いわば「想定外」の仕事だ。準備もしていなければ、余裕も見ていない。だからこそ、本来進めるべき他の業務が一気に後回しになる。登記の相談に来ていたお客さんの対応や、役所との別件のやりとりが手つかずになり、「すみません、後日に…」と謝ることもしばしば。その場をしのいでも、心の中では「余裕がない自分」に苛立ちが残る。

申請どころか相談すら手がつかない

補正対応が立て込むと、申請作業だけでなく、お客さんからの問い合わせや相談すら後回しになってしまう。電話が鳴っても「今は無理」と思ってしまうし、メールの返信も遅れがち。信頼を損なうのではと心配しつつも、物理的に無理なときは無理なのだ。そんな自分にまた嫌気が差して、ストレスの連鎖が止まらない。

焦る気持ちが判断を狂わせる

補正対応が増えてくると、「早く処理しなきゃ」という焦りが出てくる。だが、この焦りがミスを生み、さらに補正が来るという悪循環に陥るのだ。冷静に考えればわかるミスでも、疲れているときは見逃してしまう。そしてまた補正通知が届く。まるで自分の中にタイムボムを抱えているような気分になる。

それでも誰かがやらなきゃいけない

補正通知が嫌いだ。でも、無視はできないし、他人任せにもできない。司法書士としての責任を考えれば、自分がやるしかないとわかっている。事務員に頼める範囲は限られているし、補正の対応は微妙な判断が求められることが多い。ミスはそのまま自分の信用に関わってくる。だから、結局自分でやる。今日も、ため息をつきながらフォルダを開く。

事務員ひとりじゃ限界がある

うちの事務所には事務員がひとり。とてもよく働いてくれるし、ありがたい存在だ。でも、補正通知に対応できるかといえば、話は別。法律の理解、実務の判断、申請とのつながりを考えると、まだまだ任せるのは難しい。教える時間も取れないし、何よりミスがあったときに責めるのは嫌だ。だからこそ、自分で背負うしかない。

任せたくても任せられないジレンマ

業務を分担したい気持ちは山ほどある。でも、いざ補正対応となると「ここは自分でやらないと」という意識が働く。教えればできるようになるとはわかっていても、その教える時間すら惜しいほど日々は忙しい。だから今日も、「今度こそ教えよう」と思いながら、結局自分で処理してしまう。

結局、自分でやるしかない

誰かがやらなきゃいけない。自分がやるしかない。そう割り切ってはいるが、それでも心のどこかで「もう少し楽にならないかな」と思っている。そういう思いを口に出す相手もいないし、出したところで状況が変わるわけでもない。だから、黙って机に向かって、またひとつ通知を開く。

それでもやっていく理由

補正通知が来るたびに心が折れそうになる。でも、それでも辞めないのは、たまに「助かりました」と言ってもらえる瞬間があるからだ。地味で報われにくい仕事だけど、誰かの役に立っていると感じることが、唯一の救いになっている。そして、同じように苦労している同業者がいると思うと、それだけで少しだけ前を向ける気がする。

たまに届く「助かりました」の一言

補正通知に追われ、心がすり減った日に、ふと届いた感謝のメール。その一言が、信じられないほど大きな力になる。「この人の役に立てた」と思える瞬間があるから、続けていられるのかもしれない。誰に見られていなくても、自分なりに誠実にやっているという実感。それが、唯一のモチベーションだ。

誰にも見えないところで踏ん張っている人たちへ

きっと、この記事を読んでいる人の中にも、補正通知に疲れている司法書士がいると思う。あなたもまた、誰にも見えない場所で踏ん張っている。その頑張りが無駄じゃないと信じている。誰かが理解してくれるかもしれないし、理解してくれなくても、自分が自分を認めてあげられるなら、それでいいのかもしれない。

この苦労を分かち合える仲間がいると信じて

補正通知に追われる毎日。それでも、どこかで同じように戦っている人がいる。そう思えるだけで、少しだけ救われる。きっと、仲間はいる。姿が見えなくても、声が聞こえなくても。この苦労をひとりで背負ってるわけじゃない。そう信じて、今日もまた、パソコンの電源を入れる。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。