独身司法書士、晩ごはんはカップ麺…ちょっとしんどい

独身司法書士、晩ごはんはカップ麺…ちょっとしんどい

独身の夜にふと湧いてくる「これでいいのか」感

今日も無事に仕事を終えて帰宅。ほっとしたのも束の間、夕飯をどうするかが一気に現実味を帯びてくる。冷蔵庫を開けても空っぽで、気力も湧かず、結局カップ麺に手を伸ばす。テレビのバラエティ番組が流れるなか、ひとりで黙々とすすっていると、ふと「これでいいのか、俺の人生」と思ってしまう。誰かと食卓を囲んで笑い合う光景なんて、いつから遠ざかってしまったのだろう。仕事に打ち込むあまり、気づけばこんな生活になっていた。でも、誰が悪いわけでもない。ただ、疲れているだけだ。

カップ麺をすするたびに考える、人生のバランス

お湯を注いで3分待てば食事が完成する。手軽で便利なはずなのに、湯気の向こうに虚しさが漂う。栄養の偏りや塩分の摂りすぎなんて百も承知だけど、仕事から帰ってきて包丁を握る余裕なんて、正直ない。かといって外食も気が引ける。結局カップ麺に落ち着く。でもそれが、人生のどこかのバランスが崩れていることの象徴のように思えてくる。

健康と手間、どちらも投げ捨てた現実

「忙しいから」という言い訳で、食の選択肢を放棄してきた結果、体重も微妙に増えたし、血圧も気になり始めた。でも、病院に行く暇すらない。健康は大事だと分かっていながらも、優先順位が常に後回しになる。誰かに「ちゃんと食べてる?」と聞かれることもない今、体が壊れるまで気づけないかもしれない。

料理をする気力よりも「今日も終わった」の安堵が勝つ

疲れ切って帰宅して、台所に立つという選択肢はほとんどない。「自炊したほうが安上がりで健康的」とはわかっていても、目の前にある安堵感には勝てない。スーパーの総菜ですら買いに行くのが億劫で、気づけばカップ麺。誰にも見られない夜の習慣が、少しずつ心にも体にもじわじわ効いてくる。

ひとりで過ごす食卓、テレビの音だけが賑やか

テレビのバラエティ番組やYouTubeの雑談動画が、唯一の「会話相手」になっている日もある。笑い声が聞こえるだけで、なんとなく安心する。でも、ふと音を消すと一気に静まり返る部屋。そんなとき、「こんなに静かだったっけ」と胸がざわつく。誰かと共有できる食事って、実はとても贅沢な時間だったんだと気づく。

気づけば声を出していない1日がある

一日中、誰とも話さない日がある。電話もメールも、すべて事務員さんが処理してくれるし、外回りがない日はまったくの無言で終わることも。人と話すって、体力を使うけど、同時に心の栄養でもあったのかもしれない。気づけば、今日一日、自分の声を出したのは「ただいま」とつぶやいたひと言だけだった。

誰とも会話しない日の虚しさと向き合う夜

沈黙に包まれた部屋で、スマホを眺めながら過ごす時間が長くなる。誰かにLINEを送ってみようかと思っても、結局送り先が思いつかない。気軽に「晩飯食いにいこうぜ」と誘える相手がいた頃が懐かしい。今は、誰かのSNSで楽しそうな写真を見るたびに、少しだけ心が沈む。

仕事は忙しい。でも、なぜか満たされない

日中はそれなりに充実している。依頼もあるし、役所や法務局への対応で慌ただしく動いている。だけど、不思議なことに、どれだけタスクをこなしても「やった感」がない。誰かに褒められるわけでもなく、感謝されるよりもトラブル回避が当たり前の仕事。そうして、自分の存在意義をふと見失う。

「必要とされている」はずなのに

司法書士の仕事は、誰かの人生の節目に立ち会うことが多い。登記、相続、会社設立…いずれも大事な手続き。でも、それを「当たり前」にこなす人という位置づけになってしまっている。必要とはされている。でも、それは感謝というよりも「いて当たり前」の存在として。これが地味に心を削っていく。

感謝の言葉よりも先に来るクレームの言葉

「まだですか?」「急いでるんですけど」と言われることがあっても、「ありがとう」と言われることは意外と少ない。こっちのミスでないことも多いが、相手にとってはそんなこと関係ない。気を抜いた瞬間に怒りをぶつけられるリスクが常にある。それが重くのしかかる。

疲れと共にすり減っていく自己肯定感

頑張ってるつもりなのに、「俺、何やってんだろうな」と思う夜がある。案件を無事に終えても、それは「終わって当然」として片付けられる。誰も見ていないし、ねぎらいの言葉もない。それでも、明日もまた案件がやってくる。その繰り返しが、自分の中の何かを削っていく。

事務員さんとの距離感にも気を使いすぎてしまう

唯一、事務所内で顔を合わせる人。でも、だからこそ余計に気を使う。年齢も性別も違えば、話題も選ばなければならない。ちょっとした言葉遣いひとつで変な空気になるのが怖くて、あえて雑談すら避けてしまう自分がいる。もっと気楽に話せたらいいのに、と思っても、どこかで自分にブレーキをかけている。

優しくするのも、冷たくなるのも難しい

「いい人」でいようとすると、距離が縮まりすぎる気がするし、かといって冷たくしすぎると、事務所の雰囲気が悪くなる。間合いの取り方が本当に難しい。そもそも、職場での人間関係に慣れていない自分には、最適な関係性というものが未だにつかめない。

「人との適切な距離」がわからないままの45歳

歳だけは重ねてきたけれど、対人関係の悩みは学生時代とあまり変わっていない。むしろ、責任や立場がある分、余計にややこしい。誰かに相談できるほどの親しい関係もなく、自分の中でぐるぐる悩みを抱えてしまう。「大人ならうまくやれる」と思っていたけれど、そんな簡単な話じゃない。

恋愛や結婚のことなんて、今さら考えても…

若い頃は「そのうち誰かと出会えるだろう」と思っていた。でも、いつの間にか「そのうち」は来なかった。気づけば、結婚どころか恋愛すら遠ざかっている。婚活サイトに登録したこともあったけれど、続かなかった。年齢も、生活スタイルも、すべてが恋愛に向いていないと感じてしまう。

仕事が終わる時間には、世間の「日常」はもう終わってる

仕事が終わるのはだいたい20時過ぎ。そこから飲みに行けるような友人もいないし、婚活パーティーの時間帯にも間に合わない。街中のカフェやレストランはカップルや家族連れで賑わっていて、自分がそこに入る勇気はなかった。「出会いがない」というよりも、「出会いに踏み込むエネルギーがない」のが正直なところだ。

マッチングアプリも疲れるだけだった

プロフィールを書いて、写真を用意して、メッセージを送って…それだけで疲れてしまう。マッチングしても続かない。会う時間を作るだけで一苦労。年齢のこともあるし、司法書士という職業の説明も面倒だった。段々と「もう、いいや」と諦めモードになってしまった。

「理想の相手像」を考えることすら面倒になってきた

昔は「こんな人と付き合いたいな」と理想があった。でも、今はそんなことを考える余裕すらない。仕事で頭がいっぱいで、休みの日は寝て終わる。恋愛や結婚に夢を見なくなってしまった自分が、少し寂しい。でも、そこに執着してもしんどくなるだけ。どこかで心を閉じてしまったのかもしれない。

それでも毎日続く司法書士の仕事

文句を言いながらも、明日も事務所は開くし、依頼はやってくる。気がつけば10年以上この仕事を続けている。やりがいがないわけじゃない。たしかに感謝される瞬間もある。でも、それ以上に「やるべきこと」が多すぎて、感情が追いつかない日も多い。逃げたくても、逃げられない。だけど、続けるしかない。

依頼は尽きない。それが喜びでもあり呪縛でもある

この仕事は、信用で成り立っている。だから、一度得た依頼者の信頼はありがたい。でも、その分、責任も大きいし、ミスも許されない。常に何かに追われている感覚が抜けない。依頼があることは本来喜ぶべきなのに、心のどこかで「もうちょっとだけ休みたい」と願ってしまう。

「逃げたら終わり」と自分に言い聞かせる

辞めたいとまではいかない。でも、「ちょっと距離を置きたいな」と思うことはある。それでも、「逃げたら終わり」という声が頭の中で響く。誰も代わりがいないこの事務所では、自分が倒れたらすべて止まってしまう。そのプレッシャーに耐えながら、なんとか日々をまわしている。

それでも、明日も同じようにカップ麺を食べる

この生活がいつまで続くのか、自分でもわからない。もしかしたら、来年も再来年も、変わらずカップ麺をすすっているのかもしれない。だけど、そんな中でも時々、「ありがとう」と言ってもらえる瞬間がある。それだけで、明日も頑張ってみようと思える自分が、まだどこかに残っている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。