朝から晩まで働いても「当たり前」扱い
朝8時に事務所のシャッターを開けてから、夜の帳が下りるまで、司法書士という仕事は途切れることがない。登記申請、相続相談、期日の確認、役所とのやりとり、そして電話応対。どれもこれも、「やって当たり前」と思われている業務ばかりだ。ミスなく、時間通りに処理するのが“プロ”ということなのかもしれない。でも、誰かが「今日も一日よく頑張ったね」と言ってくれることは、まずない。
自分が倒れたらどうなるか、誰も気づいていない
体調が悪くても、誰にも言わずに出勤する。なぜなら、自分が休んだら回らないことを知っているから。事務員はひとり。頼りたくても限界がある。風邪でフラフラしながら法務局に行ったこともある。電車の中で「倒れても誰も気づかないかもな」とふと思うことがある。でも、周囲は自分が元気に見える限り、こちらの状況に気づかないし、気づいても何も言わない。「自分がいなくなったら困る人がいる」という事実だけが、かろうじて自分の存在を肯定してくれている。
「元気そうで何より」と言われる違和感
「最近どう?」と聞かれて「元気にやってますよ」と答えると、決まって「それは良かった」と返される。でも、本当は元気なんてない。笑顔も無理して作ってる。だけど、そこで「実は疲れてます」と言うのは空気が重くなるし、相手も困る。だから言えない。まるで、仮面を被ったまま日常を過ごしているような気がする。「元気そうで何より」と言われるたび、自分の本音が置き去りにされていくようで、心がすり減っていく。
頑張っている姿が見えにくい職業の悲しさ
司法書士の仕事は、成果物が見えにくい。地味で、法律の裏側を支える仕事だからこそ、表舞台に出ることは少ない。書類一枚作るために、何件も電話をかけ、何度も役所に足を運び、複雑な法令を確認している。だけど、それを誰も知らない。「登記が終わって当たり前」という認識だけが先行する。だから、こちらの努力が可視化されることはない。正直、虚しさを感じる瞬間も多い。せめて、同業者同士で労い合える場がもっとあればと思う。
評価されない仕事と、報われない気持ち
司法書士という仕事は、「問題なく終わること」が理想とされる。つまり、何も起きなければ評価もされない。でも、それを実現するために、どれだけ細心の注意を払っているかなんて、誰も見ていないし、知らない。だから、時々、何のためにここまで気を張っているのか、わからなくなることがある。
「ミスがないこと」が当然になってしまう世界
たとえば登記が完了したとき、それは誰から見ても「普通」の結果だ。でも、そこに至るまでの過程は、ミスのリスクと常に隣り合わせ。ひとつの数字の間違い、書類の遅れ、それだけで大ごとになる。だから、毎回全力で確認を重ねる。けれど、うまくいっても評価されることはない。「ちゃんとやって当然」と思われているのだから。積み重ねてきた安心感が、逆に自分の首を絞めているような気さえしてくる。
失敗にはすぐ反応、成功には無反応
過去に一度だけ、登記の確認漏れをしてしまったことがある。その時はすぐに電話がかかってきて、相手の声は怒りに満ちていた。もちろん謝罪し、すぐに対応した。だが、それ以外の何十件、何百件という完璧な業務については、誰からも連絡はこない。「問題が起きなかったから、特に言うことがない」という理屈はわかる。だけど、心は納得していない。せめて「ありがとう」と言われるだけでも、少しは救われるのにと思ってしまう。
自分で自分を褒めるしかない現実
気づけば、誰かに認められることを期待するのをやめていた。自分で自分を褒めるしかないのだ。「今日もなんとかやりきったな」「無事に登記が通って良かった」と、心の中で呟く。そうでもしなければ、やっていけない。たまにコンビニで好きなスイーツを買って、自分にご褒美を与えることもある。そんなささやかな習慣が、日々の支えになっている。本当はもっと堂々と誇っていい仕事のはずなのに、それを実感できるのは、夜ひとり事務所を閉めた後の静けさだけだ。
誰かに相談したいのに、相談できない日々
誰かに「しんどい」と言いたい。だけど、その相手がいない。家に帰っても独り。友人もみんな忙しく、なかなかタイミングが合わない。同業者との交流も減ってきた。孤独は仕事の大敵だとわかっているのに、どこかで「甘えだ」と思ってしまう自分もいる。
「頼られる人」ほど孤独を感じる
相談されることは多い。「ちょっといいですか?」と声をかけられるたび、「また誰かの問題を解決しなきゃ」と気が引き締まる。でも、自分のことは誰にも相談できない。頼られる立場の人間は、弱音を吐いてはいけないような気がしてしまう。そんなプレッシャーのなかで、自分の感情を押し殺して生きている。気づけば、「大丈夫」と言いながら、心の中で泣いていることが増えてきた。
弱音を吐けないリーダーの苦しさ
事務員もいるが、業務の全体像を把握しているのは自分だけ。だから「こうしよう」と決断する責任もあるし、トラブル時には自分が動くしかない。相談する相手がいないことが、どれほどの重圧になるか、経験しないと分からない。誰かのリーダーであることは、時にとても孤独なことだ。決断を下すたびに「これで良かったのか」と胸の中に澱のような不安が残る。
事務員にも言えないことの積み重ね
うちの事務員はとても真面目で、よく働いてくれる。でも、代表者としての悩みや資金繰りの話、対外的な人間関係のストレスなどは言えない。余計な不安を与えたくないからだ。だから、どんなに苦しいことがあっても、表面上は平静を装う。「一人で抱え込まないでくださいね」と言われても、「大丈夫ですよ」と笑ってしまう。こうして少しずつ、感情の逃げ場がなくなっていく。
それでも辞められない理由
こんなにしんどいのに、なぜ辞めないのかと自分でも思う。でも、たまに「本当に助かりました」「先生のおかげです」と言われると、その一言で、また少しだけ踏ん張れる。報われない日々の中で、たった一言の温かさが心を満たしてくれるのだ。
クライアントの「ありがとう」が心の支え
先日、相続手続きを終えた年配の女性から、お礼の手紙をもらった。手書きで丁寧に綴られた「感謝の気持ち」は、思わず涙が出るほど心に染みた。普段、仕事で泣くことなんてないけれど、このときばかりは自分の存在が誰かの役に立った実感が、全身を包んだ。どれだけ忙しくても、この瞬間のためにやっているのかもしれない。感謝の言葉一つが、自分にとっての「勲章」だ。
「使命感」と「生活費」の間で揺れる
正直、生活費のために働いている面もある。家賃、光熱費、保険料、すべては自分ひとりで背負うしかない。でも、それだけでは割り切れない気持ちがある。「誰かの人生の節目に関われる仕事」という誇りが、まだ胸のどこかに残っている。それが、辞めずに続けている一番の理由なのかもしれない。
独り身だからこそ続けられる皮肉
結婚していたら、もっと早く辞めていたかもしれない。家庭があれば、子どもがいれば、こんな無理はできなかった。でも、独りだからこそ、自分のことだけを考えて働けるというのも、また事実。皮肉な話だけれど、誰にも必要とされていない自由が、今の自分の働き方を支えている。