静かな来客
午後三時の訪問者
その日、午後三時。空はどんより曇り、書類の山と格闘していた僕の事務所に、一人の男が現れた。 無表情で、声も控えめな彼は、何やら登記に関する相談があるとのことだった。 顔色が悪く、まるで「笑う」という行為を人生から削除したかのようだった。
書類に残された違和感
男が差し出したのは抵当権の設定登記に関する資料だったが、僕の目に最初に飛び込んできたのは「日付」だった。 どう見ても、抹消されているはずの記録が、最新の謄本にまだ生きていたのだ。 「これは……ミスじゃすまないな」と僕は呟いた。
サトウさんの一言
「この印鑑ちょっと変じゃないですか」
隣の席で黙々と書類をチェックしていたサトウさんが、手を止めてぼそりと言った。 「この印鑑、ちょっと変じゃないですか?」 確かに、角印の押し方が妙に斜めで、紙の繊維に馴染んでいなかった。
妙な重複登記
さらに調べていくと、抵当権者の氏名が微妙に異なる表記で二重に記載されていることが判明した。 これは故意か、それとも……いや、偶然にしては不自然すぎる。 「抵当権の二枚舌ってやつか……やれやれ、、、」と僕は頭をかいた。
抵当権者の過去
笑顔を失った理由
役所に問い合わせると、抵当権者の男は過去に一度、詐欺被害に遭っていることがわかった。 その後、彼は人を信用せず、どんな相手にも笑顔を見せなくなったという。 まるで『笑ゥせぇるすまん』の世界から抜け出してきたような陰影だった。
十年前の共有名義
さらに掘り下げると、その物件はかつて夫婦共有名義だったことが判明した。 離婚後に名義変更がなされるはずだったが、それが未了のまま抵当が設定されていた。 「こんな基本的なミス、誰が見逃したんだ……」と僕は天井を見上げた。
登記簿と真実
紙に書けない動機
男は「司法書士がやった」とだけ繰り返したが、どの司法書士が関与したか明言しなかった。 登記簿の中に動機は記されない。しかし、そこにある“順番”がすべてを語っていた。 抵当権の設定日と離婚協議書の認証日が逆転していたのだ。
境界を越えた証言
隣接する土地の所有者に聞き込みをしてみた。 その人物は「あの夫婦はずっと揉めてた。土地を巡って大喧嘩してたよ」と証言した。 つまり、抵当権の登記は、争いの延長線だったというわけだ。
やれやれ、、、の調査
司法書士のうっかりと直感
僕はもう一度、登記原因証明情報を見直した。 「ここ、日付が消されて書き直されてる」と気づいた瞬間、寒気が走った。 うっかりしてたのは僕か、前任の司法書士か……。
古い謄本が語ること
法務局の倉庫で古い謄本を取り寄せた。 そこには、今は存在しない旧姓の名義と、廃止されたはずの担保設定が記録されていた。 「これ、戻すべき情報が戻ってない……」と、僕は静かにため息をついた。
真実の登記
隠された差押えの痕跡
実は一度、差押えが入っていたことがあると、地裁の記録でわかった。 差押えは取消されたが、その痕跡が誰にも伝えられないまま、登記簿は更新された。 つまり、今の記録は“虚構”の上に成り立っていた。
沈黙する抵当権者の覚悟
「私は……誰も信じていなかったんです」 最後に男がつぶやいた一言は、印鑑よりも重かった。 彼が笑わなかったのは、過去の失敗と他人の過ちが絡みついていたからだ。
笑わぬ証人の告白
「私が押したのではありません」
ついに彼は白状した。「あの書類の印鑑、私が押したのではありません」 つまり、第三者による偽造か、または代理権の誤解使用だった。 問題は、どちらの責任を問うべきかだった。
サトウさんの推理が光る
「たぶん、前の司法書士が確認不足のまま登記したんですよ」 サトウさんは資料の端を指さしながら、すらすらと状況を整理していく。 僕は思わず「さすがだな」と唸るしかなかった。
結末と訂正登記
真実を記す欄外の備考
結局、登記の更正申請を行い、過去の過誤を修正することとなった。 備考欄には「誤記により…」と簡素な文言が並ぶだけだったが、 その裏には、笑わぬ抵当権者の長い物語があった。
元野球部は最後に打つ
「やれやれ、、、結局また俺が全部やることになるんだよな」 ぼやきながらも、最後の一押しで登記を整えると、少しだけ気分が晴れた。 バットは振らなきゃ当たらない。司法書士も同じことだ。
その後の事務所
塩対応とコーヒーの香り
サトウさんは相変わらず塩対応だったが、コーヒーだけは淹れてくれた。 「あの人、最後に少し笑ってましたよ」 彼女のその一言に、今日の疲れが少しだけ報われた気がした。
「今度はちゃんと笑ってくれよな」
僕は去っていく男の背中を見ながら、そう小さくつぶやいた。 登記簿には残らない“人の感情”を、ほんの少しだけでも取り戻せたのなら、 この仕事も、まあ悪くないかもしれない。