「プロフィールに書くことがない」という絶望
正直に言うと、SNSでも会報でも、自己紹介を求められる場面がいまだに苦手だ。司法書士として15年以上働いているが、それ以外に「私」という人間を表現する言葉がなかなか出てこない。仕事以外のことはほとんど語るほどのものもないし、趣味も、特技も、自慢できるような経験も特にない。プロフィール欄を前にしたときの、あの沈黙。まるで自分が空っぽであることを突きつけられているようで、毎回うんざりする。
司法書士という肩書はあるけれど
肩書きはある。「司法書士です」と名乗れば、それだけで話はある程度伝わるし、仕事の内容だってまあまあ知られている。でも、それって「私自身」ではないんだよな。肩書きは職業であって、人間性ではない。しかも、司法書士って、なんとなく“真面目で堅物”なイメージがあって、それがそのまま自分への先入観になってしまうのもつらい。書くことで誤解を生むくらいなら、黙っていた方がマシだと感じてしまう。
資格=自己紹介のすべてじゃない
たしかに、司法書士という資格を取るにはそれなりに努力した。でも、それをプロフィール欄に書くことが「人間としての魅力」になるかというと、それはまた別問題だ。資格って「過去の努力の証」ではあるけど、現在の自分をそのまま映す鏡ではない。試験に合格したときは達成感もあったが、10年、15年経てば、それも日常に埋もれてしまう。なのに「資格があるんだから何か書けるでしょ」と言われると、なんとも言えないむなしさが残る。
学歴も経歴も普通、だから何を書けばいい?
プロフィールって、だいたい学歴や職歴から始まる。でも、地元の高校を出て、地元の大学を出て、実家暮らしから司法書士の勉強を始めただけ。何のドラマもない。転職もしてないし、起業もしてない。上京もしてないし、海外経験もない。ただただ、目の前のことをやってきただけで、特別な経験は何一つない。だから「自己紹介書いてください」って言われると、何をどう語っても薄っぺらく感じてしまう。
そもそも自分のことを語るのが苦手
元来、僕はあまり自分のことをベラベラ話すタイプではない。人の話は聞けるけど、自分のことは話せない。これはもう性格だから仕方ない。飲み会の場でも「趣味は?」とか「最近ハマってることは?」と聞かれても、毎回言葉に詰まる。仕事の話ならなんとか話せる。でも「あなた自身はどうなんですか?」と言われると、ついごまかしてしまう。そのごまかしがプロフィールにも表れてしまうのだと思う。
“自己開示”が苦手な人間が、プロフィールを書けるはずがない
世の中には「素直に自分を表現するのが得意な人」がいる。でも僕のように、過去のことを人に語るのが照れくさい、あるいは怖いと感じてしまう人間もいる。たとえば、昔うつ気味になって仕事を休んでいた時期のことを「ネタ」にできるような強さがない。あるいは、恋愛経験が乏しいことや、モテないことを笑って話すこともできない。だから、結局「無難なこと」しか書けなくて、それがまた“自分がない”という印象を生んでしまう。
盛れない、嘘つけない、だから真っ白
最近はSNSでも、プロフィールを“盛る”ことが前提のようになっている。でも、僕にはそれができない。「趣味:読書」と書いても実際は年に2冊程度。映画も見るけど偏ってるし、音楽は昔の曲ばかり。「キャンプ好き」と書けばウケるのかもしれないけど、そんなに外に出たくない。「正直に書くとつまらない」「盛ると罪悪感」。この板挟みの中で、結局プロフィール欄が真っ白になってしまう。
書くことがないのは「何もしてこなかった」証明?
プロフィールが空白のままだと、自分が「中身のない人間」のように思えてくる。これは厄介だ。書けないことが、まるで「お前は何もしてこなかったじゃないか」という無言の圧力になって、自己否定を助長する。でも、日々の仕事はしているし、依頼人の話も聞いて、登記も進めて、トラブルもなんとか処理している。それでも「書けない」というだけで、どこか自分に劣等感を覚えるのは理不尽なことだと思う。
そう思い込んでしまうのが一番しんどい
結局のところ、自分で「プロフィールに書けることがない」と決めつけてしまっているだけかもしれない。人から見れば「15年事務所を続けている」とか「一人で地道に業務を回している」こと自体が十分に語るべきことかもしれない。でも、自分でそれを「当たり前」と思い込んでしまうから、言葉にならない。自分を過小評価する癖が、プロフィールの空白をさらに広げてしまう。
日々の業務に追われるだけで人生終わってないか?
平日は朝から晩まで業務に追われ、土日は疲れて寝ているだけ。そんな毎日を過ごしていると「何かを書く」という余白がそもそもない。気づけば1年が終わっている。気づけば40代も後半になっていた。こんなふうに忙しさにかまけて、自分を振り返ることをしてこなかった。それが「プロフィールに書くことがない」という形で現れているんじゃないかと、ふと思ったりもする。
人と比べるから苦しくなるプロフィール欄
SNSや同業者のHPを見ていると、「この人、すごいな」と思うことが多い。受賞歴、セミナー登壇、YouTubeチャンネル、書籍出版…。僕にはそんな華やかなものはない。そう思うと、プロフィールを書く手が止まる。でもそれは比べてしまうから。僕は僕の場所で、地域の人たちの細かい依頼を一つずつこなしている。派手じゃなくても、それをちゃんと「やってきた」と認めることが、まず必要なんだと思う。
小さな日常に「書く価値」があると信じたい
派手なエピソードがなくても、小さな日常にだって価値があるはずだ。朝一で登記申請して、依頼人に電話して、事務員さんと昼を食べて、午後に役所に行く。それだけのことが、積み重なって「仕事」になっている。プロフィールに書く内容って、そういう一見地味だけど確かな日々でも、十分だと思いたい。書けない、ではなく、書いてないだけなのかもしれない。
プロフィールに“武勇伝”なんていらない
世の中には「わかりやすいエピソード」が求められるけれど、僕たちの仕事は地味で、目立たないことが多い。でも、地味であることと価値がないことは別問題。むしろ、誰にも知られず、感謝もされにくい仕事をコツコツ続けている人こそ、書くべきことを持っているのかもしれない。武勇伝がなくても、日々の積み重ねこそが本当のプロフィールなのではないか。
一人で事務所を守ってる、それだけでも立派
僕は一人で事務所を回している。事務員さんはいるが、基本的には全体の流れを僕が見ている。トラブル対応、クレーム処理、書類のチェック、営業…。誰かに評価されることも少ないけれど、この地で事務所を続けていること自体、胸を張っていいのかもしれない。プロフィールに「地方で司法書士事務所を15年継続」と書くだけでも、伝わることはあるはずだ。
事務員とのやり取りすら立派なストーリー
事務員さんとちょっとしたことでぶつかることもある。書類の確認漏れ、連絡ミス、感情のすれ違い…。でも、そのひとつひとつを乗り越えて、関係を続けてきた。これだって、立派なストーリーだと思う。プロフィールには、そんな“誰かとの関係性”も書いていいのかもしれない。何もないんじゃなくて、言葉にしていなかっただけだ。
書けないときは、書かなくていい
どうしても何も浮かばないときは、無理に書かなくてもいい。空白があっても、それは「何もない」のではなく「何を書こうか考えている最中」なのかもしれない。沈黙もまた、ひとつのメッセージになる。焦って何かを書くより、素直に「今は書けない」と言えることも大事だと思う。
沈黙もひとつの自己紹介になる
プロフィールが白紙だったとしても、それは「語ることを保留している人」なのかもしれない。語ることを選ばない人にも、人生がある。沈黙の裏には、その人なりの物語があるはずだ。声が大きくないだけで、存在していないわけではない。書けないことを責める必要はないと、最近になってようやく思えるようになった。
無理して語るより、誠実に黙っていたい
自分を偽って何かを盛ったプロフィールを書くくらいなら、正直に「語ることがありません」と書く方がいい。世の中には、言葉にできない経験や感情がある。そのすべてを無理やり文字にしなくても、自分の中に持っているだけでいい。誠実さは、言葉数ではないと信じている。
プロフィールが空欄でも、あなたは存在している
プロフィールが空欄だと、不安になることがある。「こんな自分でいいのか」と自問する夜もある。でも、空欄の中にもその人なりの人生がある。誰にも見えなくても、自分だけはその価値を知っている。書けなくても、生きている。それだけで、十分じゃないかと思う。