誰かと手をつなぐより、今日もまた認印

誰かと手をつなぐより、今日もまた認印

誰かと手をつなぐより、今日もまた認印

「恋より先に押すものがある」

45歳、独身、司法書士。気がつけば、休日に誰かと映画に行ったのは何年前だろう。最近では、朝起きて最初に触れるのはスマホじゃなくて印鑑ケースだ。恋だとか温もりだとか、そんなふわっとしたものは、とっくに生活の選択肢から抜け落ちてしまった。今や「押印お願いします」が、誰かとのもっとも近い接点なのかもしれない。

手を握るより先に、印鑑を探してる自分がいる

昔は人の手をつなぐことに少し憧れもあった。でも今では、その手を差し出してくれるのは依頼人か事務員くらい。しかも差し出されるのは「この書類で合ってますか?」という紙。印鑑を探してゴソゴソする様子は、何かを大事にしているようにも見えるが、そこにロマンはない。握手ひとつで関係が始まるような世界とは無縁だ。

誰かと過ごす土曜より、郵便局と法務局を優先する週末

世間が「土曜の午後はカフェデート」とか「映画でも行くか」とか言っている間、私はといえば書類の不備が気になって仕方がない。急ぎの登記が入れば、郵便局の速達が最優先だ。誰かと過ごす時間より、誰かのために急いで届ける申請書類。あの書類たちは、たしかに“誰か”の役に立ってはいるけれど、私の孤独には何もしてくれない。

「寂しさよりも先に、やらなきゃいけないことがある」

誰かに「寂しくないんですか?」と聞かれることがある。正直、寂しさはもう感じなくなった。感じる間もなく、次の書類、次の電話、次の面談が来る。生活の優先順位に“感情”が入り込む余地はない。お腹が空いたとか眠いとか、そんな生理的欲求と同じレベルで“押印してもらう”という仕事が割り込んでくる。

“好き”より“委任状”、ロマンスは後回し

昔、ちょっといいなと思った人がいた。けれど、タイミング悪く、ちょうど遺産分割協議書の作成依頼が重なった。面談と面談のすき間でLINEの返信を考えていたら、既読スルーされて終わった。結局、“好き”の気持ちより、“委任状”の署名が優先された。ロマンスなんて、書類の山には存在しないのだ。

この仕事、誰かに相談するより先に登記が来る

「大変ですね」って言われることはあるけれど、「大丈夫ですか?」と心から聞いてくれる人は少ない。というより、私自身、聞かれる前に次の仕事を始めてしまう癖がある。愚痴も吐けず、悩みも飲み込む。それがクセになって、相談という行為自体が面倒になっている。

会話の9割が「いつまでにやりますか?」

お客様との会話、事務員とのやり取り、行政との連絡。どれも「期限」が主役だ。「いつまでに」「どこまで」「あと何件」。そんな数字と日付ばかりが飛び交い、誰かの「最近どう?」なんて声は入ってこない。予定表が詰まるほど、感情の居場所がどんどんなくなっていく。

孤独と忙しさ、どっちが本当に辛いか

孤独は慣れる。でも、忙しさは麻痺する。だから、たまに手が空いたときにふと感じる空虚感が怖い。誰にも呼ばれず、誰にも必要とされていないような時間が来ると、逆に不安になる。結局、孤独よりも“止まった瞬間”が一番こたえる。

「認印は誰のものか、なんてもうどうでもいい」

誰の印鑑かなんて、いちいち気にしなくなった。依頼者の名前も、正直3回聞いても覚えられないときもある。とにかく確認して、押してもらって、回収して、処理する。この流れのなかで、“人”を感じる暇はない。でも、ふとした瞬間に、そこにあった小さな優しさに触れることもある。

恋人の名前じゃなく、登記義務者の名前を思い出す日々

寝起きに思い出す名前が、まさか“甲野太郎”さんとは思わなかった。昨日の登記義務者。何度も書類に書いたせいか、頭から離れない。かつては好きな人の名前を寝る前に思い浮かべていたのに、今は印鑑証明の住所と氏名が先に出てくる自分がいる。哀しいような、職業病のような。

相続人の数は数えるのに、自分の交際人数は数えたことない

「被相続人:母、相続人:子2人」そんな関係図を毎日のように作っているが、自分の関係図は真っ白だ。付き合った人数?…って考えた瞬間に、もう思考停止する。そんなもの、最初から計算外だったのかもしれない。

事務員との会話で救われる午後3時

「先生、ちょっとお茶でも淹れましょうか?」その一言で救われる午後がある。事務員さんの存在が、私の職場での唯一の“人間味”かもしれない。たった5分でも、誰かと交わすたわいない会話が、空っぽになりかけた心に温度をくれる。

誰かに必要とされる仕事と、誰かに必要とされたい気持ち

たしかに仕事では感謝される。困っている人の役には立てる。でも、「ありがとうございます」と言われたあと、ふと「この人は私を人として見ているんだろうか」と感じる瞬間がある。私は“司法書士”として必要とされているだけで、“私”という存在は置いてけぼりだ。

「結局、仕事を選んだのは自分」

ここまで書いて、つくづく思う。自分でこの道を選んだのだ。モテなくて、独身で、書類ばかりの日々。でも、それでもこの仕事が嫌いになれない。悔しいくらい、誰かの「助かりました」に弱い。

司法書士という選択肢は、恋と引き換えだったか?

大学を出て、資格を取って、仕事に就いた。最初の頃は、生活を安定させたかっただけ。でも気がつけば、土曜も日曜も、誰かのために動いてる。恋をする時間なんて、どこに紛れたのだろう。いや、最初からそこに選択肢はなかったのかもしれない。

誰かの“困った”に応え続けるうちに、自分の“困った”はどこへ

依頼人の悩みは敏感に察知するくせに、自分の悩みは何年も放置している。放っておいても仕事は回るし、誰も気づかない。だから自分でも見ないふりをする。けれど、たまに夢に出てくるのだ、「こんな生活でよかったのか?」という声が。

優しさで埋まらない夜もある

誰かに親切にしてもらっても、それが自分の心の隙間にちょうどハマるわけじゃない。たしかに優しさはある。でもそれは、感謝と義理の延長であって、愛ではない。そうわかっていても、どこかで期待してしまう自分がいる。

それでもこの仕事が好きだと思える瞬間

一つの登記が無事に終わって、お客様がほっとした顔で帰っていく。その瞬間、心がちょっと温かくなる。報われたとか、やりがいだとか、そんな綺麗な言葉じゃなくて、「まあ、やってよかったか」くらいの小さな納得。でも、それで今日もやっていける。

「それでも今日も、認印を受け取る」

恋じゃない。愛でもない。ただ、確かに誰かが「必要です」と言ってくれる。印鑑を押すその一瞬に、私は“役割”として生きている。それが人としての孤独を完全に癒してくれるわけじゃない。でも、誰にも必要とされないよりはずっとマシだ。

誰かの不安を少しでも減らすために

今日もまた、誰かが法的な問題で困っている。その不安を、書類と手続きで少しでも軽くできるなら、それは意味のあることだと思っている。自分の孤独が“役立つ”ことで薄まるなら、それでいいとすら思う。

笑われても、やっぱりこの仕事に誇りはある

「手続き屋さんでしょ?」と軽く言われることもある。「恋より認印」と自虐することもある。でも私は、この“地味だけど確かな仕事”に、ちゃんと誇りを持っている。誰にも気づかれなくても、誰かの生活の裏側に確実に役立っている。それだけは間違いない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。