服なんかどうでもよくなった日、僕はちょっと疲れていた

服なんかどうでもよくなった日、僕はちょっと疲れていた

朝、スーツを選ぶ気力が消えた

ある朝、クローゼットの前で完全にフリーズしてしまった。並んだスーツを見ても何も感じない。どれもシワが寄っていて、ネクタイの組み合わせなんて考える余裕もない。結局、一番無難なグレーのスーツを手に取り、ネクタイも適当に選んだ。合わせる靴下は左右違っていたかもしれないが、もうどうでもよかった。昔はもう少し楽しんでいた気がする。けれど今は「間に合えばいい」。そんな気分だった。

昔は多少なりとも色合わせを気にしていた

大学生の頃は、服を選ぶ時間が楽しかった。シャツの柄を変えるだけで気分も変わったし、ちょっとしたアクセサリーにもこだわっていた。司法書士になる前、受験勉強で疲れていても、出かけるときにはコーディネートを工夫した。別に誰に見せるわけでもなかったけれど、着る服でその日のテンションが決まるような感覚があったのだ。

今は清潔感さえ保てば合格ライン

今は「しわがない」「汚れてない」「匂わない」。この3点をクリアすれば、それで合格。事務員さんに不快感を与えない程度に整っていれば、もうそれで十分だと思ってしまう自分がいる。おしゃれなんて、そんな贅沢、今の自分には似合わない気がする。何より、忙しさに追われる毎日で、自分を飾ることに意味を感じなくなってしまった。

なぜ、服にこだわる余裕がなくなるのか

それでもふと立ち止まって思う。「なんでこんなに何も気にしなくなってしまったんだろう?」と。確かに、日々の仕事は忙しい。登記の締切、面談のスケジュール、書類の山。だけど、忙しいという理由だけで、自分の気持ちまで殺してしまっていいのだろうか。服にこだわらなくなったのは、心がくたびれている証拠かもしれない。

仕事の優先順位がすべてを飲み込んでいく

朝から晩まで、タスクに追われる毎日。あの相談者に電話をして、この登記を進めて、来週の法務局提出書類も忘れずに――。そんなことばかりを考えていると、「今日は何を着て行こうかな」なんていう気持ちはすぐにどこかへ消えてしまう。服を選ぶより、1分でも多く寝たい。そう思ってしまうほど、仕事は容赦なく時間と余裕を奪っていく。

疲れが積もると、鏡を見るのも面倒になる

朝、洗面所の鏡に映る自分を見ても「どうせ今日も疲れるだけだ」と思ってしまう。髪型を直す気にもなれず、シャツの襟が曲がっていても気づかない。いや、気づいても直さない。「どうせまた汗でよれるし」と。鏡の中に映るのは、身なりを気にしなくなったおじさん。自分でもそう思う。そんな自分に、少し寂しさを覚える。

「人にどう見られるか」より「今日が終わるか」の方が重要になる

独立してからというもの、「外見を整えること」は次第に優先順位が下がった。誰かと勝負する仕事ではないし、服装で評価されるわけでもない。むしろ、仕事の正確さや信頼性のほうが重要だ。そう思ってきたけれど、それは半分正解で、半分言い訳だったのかもしれない。結局は、疲れて余裕を失った自分が、気にしないことにしているだけだった。

事務員さんに言われてハッとした一言

ある日、事務所に入ってきた僕を見て、事務員さんがぽつりと「先生、今日は……寝巻きですか?」と笑った。冗談混じりだったが、その一言が心に突き刺さった。確かにその日、家で過ごすようなシャツに、だるんとしたパンツで来てしまっていた。自分では無難だと思っていたが、外から見ればそう見えたのだ。その言葉で、少しだけ目が覚めた。

他人の目が気にならなくなると、ちょっと危険

服装に無頓着になると、自分が気づかないうちに周囲に与える印象も変わってくる。きちんとしていない=仕事も雑そう。そんな印象を持たれかねない。実際には真面目にやっていても、見た目で損をすることはある。おしゃれをする必要はないけれど、最低限の「整え」は大事だと、改めて思い知った。

おしゃれが自己表現だった時代の記憶

高校生のとき、服にこだわるのが楽しくて仕方なかった。バンドTシャツにジーンズ、流行のスニーカー。親に怒られながら買った服を、大切に着ていた。あの頃は、自分のスタイルを持つことにこそ意味があると思っていた。今はもうそんな気持ちは遠くにあるけれど、ふと思い出すと、少しだけ切なくなる。

若い頃は服にこそ気合を入れていた

20代、初めて法務局で仕事をしたとき、スーツもネクタイもピシッと決めていた。自分が「信頼される人間」に見えるように、それなりに努力していた。服装は自信の一部だった。あの頃の写真を見ると、少しだけ誇らしげな自分がいる。その姿に、今の自分は見劣りしてしまう。

古着屋巡りが休日の楽しみだった頃

休日になると電車に乗って、街の古着屋を何件も回った。掘り出し物を見つけるたびに、まるで宝物を見つけたような気分になった。誰に見せるでもなく、自分のためだけに選んだ服たち。それは、自分を表す手段だった。今ではユニクロ一択。それが悪いとは思わない。でも、あの頃のワクワク感が懐かしい。

好きな服で少しでも自信を持とうとしていた

自分に自信がなかったからこそ、服で補おうとしていたのかもしれない。少しでも「ちゃんとしているように」見られたくて。服を整えることで、心も少しシャキッとした。服とは、不思議なもので、着るだけで内面も変わる気がしていた。それが「装う」という行為の力だったのだろう。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。