依頼人は旧友だった
「予約してた伊東ですけど……」と静かに入ってきたのは、高校時代の同級生だった。甲子園出場をかけた県大会準決勝で、俺がエラーしたせいで泣いた、あの伊東だった。俺が司法書士になって以来、初めての再会だった。
彼は目立たぬスーツを着ていたが、目の奥にはかつての闘志のようなものが、くすぶっていた。依頼内容は「ある家屋の移転登記」。だが、その言葉の奥に、何か言いにくそうなことが見え隠れしていた。
忘れかけていた名前
「名義は元妻のままでね」と伊東が口を開いた時、俺の頭の中に高校時代の文化祭で見た、あの目立つ笑顔がよみがえった。あの時、伊東の彼女だった女性だ。
どうしても、その名が頭から離れなかった。思い出というのは、時間の埃を払うだけで、妙に鮮明に浮かび上がってくるものだ。
不自然な移転登記の相談
伊東は「もう何年も会っていない」と言ったが、その割に提出書類はやけに整っていた。必要書類は全て揃っていたし、押印の跡も新しい。「これは、何かがある」と、直感がささやいた。
登記簿の情報に目を落としながら、俺は無意識に舌打ちしていた。サトウさんが「シンドウ先生、口に出てます」と冷たく言った。やれやれ、、、またやってしまったか。
登記事項証明書の違和感
改めて登記事項証明書を見直すと、移転登記の原因が「贈与」となっていた。離婚後の元妻に家を贈与するなどというのは、なにか不自然だ。伊東の性格を考えても、合理的な説明がつかない。
不思議なことに、名義変更の日付は彼女が伊東のもとを出ていった直後になっていた。あまりに出来すぎている。これは、ただの登記の話では済まない。
名義変更の時期が語るもの
俺は過去の登記履歴を洗い出してみた。そこには、ある意味で「感情」が刻まれていた。離婚の翌月、きっちり登記が移されていたのだ。まるで、彼女が伊東の人生から名実ともに消えたことを示す儀式のように。
登記簿が、まるで探偵漫画の手がかりみたいに、じわじわと語り始めていた。冷たく、だが確かに事実を語る記録だった。
現地調査とふたりの女
登記対象の家屋を訪れたのは、ある晴れた午後だった。田舎町のはずれにある小さな平屋。庭先には洗濯物が揺れていたが、その割に人の気配は感じられなかった。
玄関のチャイムを鳴らすと、まず出てきたのは笑わない女だった。たぶん、これが元妻だ。そして後ろから、見覚えのあるもうひとりの女が現れた。伊東の元恋人、いや、おそらく今の恋人だ。
静かな田舎町の一軒家
「登記の件で……」と切り出すと、彼女たちはお互いの顔を見ずに、それぞれ別の方向を向いて頷いた。空気が張り詰めていた。この家には、法的にはひとつの所有権しか存在しないが、感情的には三者三様の執着が絡んでいる。
ここにはもうひとつのドラマがある。登記簿には書かれていないドラマが。
サトウさんの推理が冴える
事務所に戻って資料を並べていたら、サトウさんが言った。「これ、印鑑証明の発行日がおかしくないですか? 依頼人の話と日付がズレてます」……ああ、また先に気づかれた。
やれやれ、、、俺が出る幕は本当に少ない。けど、その分、確信が深まった。これは登記を使った感情の清算劇だったんだ。
印鑑証明書の謎と保管の不自然さ
印鑑証明は2ヶ月前に発行されていた。贈与登記の準備はそのときすでに始まっていたのだ。にもかかわらず、伊東は「昨日決心した」と言っていた。これは、決して咄嗟の思いつきではない。
つまり伊東は、元妻に家を譲ることで、彼女に対する罪悪感と、新しい恋人との生活の準備を同時に済ませたかったのだ。登記という形式で、彼は自分の感情に区切りをつけようとしていた。
真実は登記の外にあった
結局、元妻は新しい住所に転居しており、この家には新恋人がすでに入っていた。登記を済ませることは単なる儀式でしかなかった。だが、元妻が印鑑証明を渡したのは、たった一度だけ会った日だったという。
その日、ふたりは無言で書類を交わし、そして何も言わず別れた。まるで昭和のドラマの最終回のように。
嫉妬と嘘とささやかな復讐
サトウさんが言った。「彼女はたぶん、それで終わりにしたかったんでしょうね。書類ひとつで、過去も感情も処分したつもりだったのかもしれません」
俺は頷いた。司法書士というのは、感情を処理する仕事ではない。けれど、ときには登記簿の行間から、人の心を読む必要がある。まるで名探偵コナンのように。
再会は過去を清算するために
伊東は最後に「ありがとう」と一言だけ言って帰っていった。まるで、俺との関係まで清算するように。いや、もしかすると、これは新しい始まりだったのかもしれない。
俺のほうこそ、かつてのエラーを少しだけ取り戻せたような気がした。
男の謝罪と女の沈黙
すべての登記が完了したあと、元妻から一通のはがきが届いた。「家、ありがとう。もう会うことはないと思います」それだけだった。だが、そこには確かな決着の空気があった。
登記という冷たい事務作業の中に、人の別れと再会が詰まっている。俺は書類を閉じて、午後の光の中でコーヒーを啜った。
登記は終わり人間関係は始まる
人生の区切りは、時に印鑑と書類でつけられる。だが、人の関係はそんなに簡単には終わらない。むしろ、そこから始まるものもあるのだ。
俺の机の上には、また次の依頼書が置かれている。やれやれ、、、今日は長くなりそうだ。