誰にも必要とされていない気がするとき、登記の書類だけが自分を待っていた
誰にも必要とされていない気がした朝
朝起きてスマホを見ても通知が一つもない。誰からのLINEも、メールも来ていない。仕事の依頼もなく、予定表はスカスカ。ふと「自分って、本当に社会に必要とされてるんだろうか」と思ってしまう。そんな日は決まって天気も曇りがちで、気分までずっしり重たくなる。特に地方で一人事務所をやっていると、仕事がない日は完全な無音状態だ。ラジオをつけても、心に響くのはDJの軽快な声ではなく、自分の存在の薄さだったりする。
メールの未読ゼロ、通知もゼロ、電話も鳴らない
誰にも求められていない感じって、静けさの中にある。スマホを手に取っても、真っ白な画面。通知が鳴るたびにイライラしていたのが、今では鳴らないことのほうが不安になる。電話が鳴らないのはトラブルがない証拠…のはずなのに、「今日、誰にも必要とされてないのか」と感じてしまう。人と関わる仕事のはずなのに、気がつけば書類としか会話していない気がする。
でも登記の〆切だけは今日も待ってくれている
唯一、確実に僕を必要としてくれるのが登記の締切だ。登記簿は、僕が動かないと進まない。役所の提出期限は待ってくれないし、クライアントの期待も実はそこに乗っている。誰からも声がかからない日でも、あの書類だけは机の上に置かれたままで、僕が向き合うのを待っている。その存在に救われることもあるけれど、それだけが自分の価値になっているようで、少しだけ寂しい。
それは慰めなのか、ただの義務なのか
登記の仕事があることで生活は成り立っている。でも、それが「自分が必要とされている証拠」だと思えるかというと、微妙だ。淡々と処理していくだけの作業になり、誰かから「ありがとう」と言われるわけでもない。締切を守るのは当然のことで、感謝される対象にはならない。ただの義務。だけど、それをこなすことでしか、自分の居場所が感じられない日もある。
「必要とされたい」という気持ちは、甘えか?
大人になっても、必要とされたいという気持ちは消えない。士業としてやっていると、「自分は感情を出さず、常に冷静に」みたいな空気がある。でも本当は、人からの一言で気持ちが左右されるし、「頼られている」という実感がないと心が干からびてくる。そんな自分を「甘いな」と思う反面、「誰だってそうだろ」とも思う。たまにそんな自分を否定しそうになる夜がある。
士業に「承認欲求」は邪魔なのかもしれない
司法書士という仕事は、誰かに褒められることを求めてはいけない空気がある。間違いなく正確に仕事をするのが当たり前で、その先に感謝があるかどうかは、もう偶然みたいなものだ。でも人間は機械じゃない。承認欲求を捨てたつもりでも、心の奥では「よくやってますね」と言われたい。そう言われるだけで、翌日の自分を少し前向きにできるから。
それでも人間だから欲しくなる
どんなに理屈で割り切っても、誰かから「ありがとう」や「助かりました」と言われたときの嬉しさは消せない。それが年に数回でも、心の支えになる。褒められたいわけじゃない。誰かのためになったという実感が欲しい。それがあるだけで、また机に向かう気力が湧いてくるのだから。
事務員さんが休んだ日の静けさがつらい
一人でやっている日も多いけど、事務員さんがたまに休むと、事務所が異様に静かになる。コピー機の音すら恋しく感じるし、「今日一日、誰とも話さなかったな」と気づいたときの寂しさは結構深い。人と関わらなくても仕事はできる。でも、誰かがいることで、心のバランスが保たれていたのだと実感する。
一人でいると、自分の価値を測りたくなる
一人の時間が長くなると、自分の価値を勝手に査定しはじめてしまう。「自分って、いてもいなくても変わらないんじゃないか?」とか、「自分より有能な人なんていくらでもいる」とか。そう考えだすと、どんどん沼にはまっていく。でも誰かと話しているだけで、その思考が一旦止まることがある。人って、人によって生かされているのかもしれない。
でも測るものなんて、どこにもない
実際、自分の価値なんて、測れるものじゃない。報酬?依頼件数?資格?全部、相対的なものでしかない。結局のところ、自分自身が「今日も仕事した」と感じられるかが一番大事なのかもしれない。それだけでいいと思いたいのに、どうしても外の評価を探してしまう。弱いなあ、とまた思ってしまう。
それでも、今日も事務所のカギを開ける
誰に必要とされているのかなんてわからなくても、とりあえず今日もカギを開けて机に座る。それだけで「仕事してる自分」が確かにそこにいる。登記の書類が待っている。それを見て、「誰かのためにやってる」と無理やり納得する。自己満足でもいい。それがないと、たぶん僕は続けられない。静かな事務所に自分の足音だけが響く朝、それでも少しずつ手を動かしていく。