ペット禁止のアパートに住んで、ふと思うこと
もう何年も、ペットの「ぺ」の字もない暮らしをしている。朝起きても、足元にスリスリしてくる毛玉はいないし、帰宅しても鳴き声ひとつしない。地方の司法書士として事務所を構え、事務員さんと二人三脚で何とか毎日をこなしているが、家に帰ると急にシンと静まり返る。人間関係で疲れても、癒してくれる存在がいない。そんな生活を続けていると、ときどき「自分って、こんなに無機質だったっけ」と不思議になる。たかがペット、されどペット。いるのといないのとでは、心の温度が全然違うのだ。
静かすぎる部屋、鳴き声のない夜
静かなのは好きだった。司法書士という仕事は、集中力が求められる。だから家に帰っても、静寂は歓迎だったはず。でも最近は、この「静けさ」が寂しさに変わってきている。たとえば、夜中にふと目が覚めた時、誰かの寝息や小さな鳴き声があったら…なんて考えることが増えた。近所のアパートからたまに聞こえる猫の鳴き声に、耳が勝手に反応してしまう。あの声に嫉妬するようになったら、もう末期かもしれない。自分の中の「誰かと一緒にいたい」欲求が、じわじわと噴き出してくるのを感じる。
仕事が終わっても、迎えてくれるものがいない
一日中、人の問題に向き合っている。登記のこと、相続のこと、トラブルのこと。誰かの人生の一部を背負って帰ってくる夜は、気持ちの切り替えができないことも多い。そんなとき、玄関でしっぽを振って出迎えてくれる存在がいたら、どれだけ救われるだろうか。事務所の鍵を閉めたときの安堵とは違う、もっと深いところでの癒しが欲しい。でも僕のアパートには、そんな存在はいない。出迎えてくれるのは郵便受けのチラシくらいだ。
鳴き声の代わりに流れるYouTube猫動画
最近の癒しは、もっぱらYouTubeの猫動画だ。パソコンの前に座り、仕事の資料を片付けたあと、動画サイトで「子猫 癒し」なんて検索してしまう。スマホで見てると、たまに「飼えばいいじゃん」とコメントがあって、思わず「こっちはペット禁止物件なんだよ」と声に出そうになる。画面の中のモフモフたちに感情移入して、気づけば1時間。その時間が終わると、現実に戻される感覚がキツい。「あの子たちは飼い主がいるけど、俺には誰もいないんだな」と思ってしまうのだ。
動物に癒されたい日々、でも現実は…
昔はそんなにペット願望が強い方じゃなかった。でも年齢を重ねてくると、誰にも甘えられない生活がジワジワ効いてくる。仕事では相談を受ける立場だし、プライベートでも「しっかりしてる人」と思われがちだ。だからこそ、せめて家では甘えたい。甘えさせてくれる存在が欲しい。だけどこのアパートはペット禁止。しかも、次に引っ越す余裕もない。気づけば、癒しを求めてドラッグストアで犬柄のクッションを買っていたりする自分に苦笑いする。
ペット不可の現実と、心のすきま
ペット禁止の物件に住むのは、コストや立地を考えると仕方がない選択だった。でもそれが、心の満たされなさに繋がるとは思っていなかった。目に見えない疲れがたまっていく。好きなものに囲まれて暮らすのが理想だとわかっていても、現実はそこまで甘くない。仕事に追われる日々、心を癒すものがないまま過ごすと、自分が「機能するだけの存在」になっていくような気がする。そんな中でふと見かける犬の散歩姿に、羨望の眼差しを向けてしまう。
「ペット飼えないんですね」が意外と刺さる
ある日、クライアントとの雑談で「先生って、犬とか飼ってそうなのに。あ、ペット禁止なんですか?」と軽く言われた。別に悪気はなかった。でもその言葉が妙に刺さった。「そうなんですよ、禁止なんで」と笑って返したものの、そのあとしばらく気分が沈んだ。世の中には「飼いたくても飼えない人」がいるという前提があまり共有されていないんだと気づいた。小さな一言で、自分の生活の「欠け」を見せつけられることもある。
司法書士としての孤独と、モフモフの必要性
法律の専門家として、多くの人と関わる日々。だけど、それがイコール「孤独じゃない」ではない。むしろ、仕事では他人の人生の重みに触れ、家では誰の温もりにも触れられないという、アンバランスな生活を送っている。そんな日々に、ふと「ペットがいればなぁ」と思うのは自然なことかもしれない。僕にとっての「モフモフ」は、癒しというより、感情を取り戻すための最後の希望なのかもしれない。
人と接する仕事だけど、人に甘えられない
相談を受ける立場の仕事をしていると、「弱みを見せられない」という無言のプレッシャーがある。クライアントには安心してもらわなきゃいけないし、事務員さんにも不安を与えたくない。だから、いつもどこかで無理をしている自分がいる。でも本音を言えば、誰かに甘えたいし、泣きたいときもある。そんな時、誰にも迷惑をかけずに、そっと寄り添ってくれる存在が欲しくなる。人じゃなくていい。むしろ人じゃない方がいいこともある。
法律に強くても、感情には弱い
民法や登記法には精通していても、自分の感情の扱い方はまったくわからない。これは司法書士あるあるかもしれない。感情を律して生きることが求められる仕事だからこそ、感情に飲まれることが怖いのだ。そんな自分にとって、ペットは「感情を緩ませる練習台」になってくれる存在だったのかもしれない。無条件でこちらを受け入れてくれる存在がいるだけで、人間はこんなにも救われるんだと、何度も夢想してしまう。
事務員さんの前では泣けないし、笑えない
事務員さんはよくやってくれている。僕が多少不機嫌でも、察してそっとしてくれるし、忙しそうにしているとお茶も差し入れてくれる。でも、だからこそ余計に「感情」を出せない。泣くのも笑うのも、どこか演技になってしまう。そんなふうに「他人に気を遣う生活」が日常になっていると、感情を素で出せる場所が一つもなくなる。ペットがいれば、そんなこと気にせずに、素直な自分でいられたのかもしれない。