未来を語るのが怖いのは、今に余裕がないからかもしれない
「将来どうしたいですか?」そんな何気ない質問に、思わず口ごもってしまうことがある。こちらは目の前の業務を片付けるので精一杯。未来なんて、そんな遠いところまで頭が回らない。地方で一人で司法書士事務所を切り盛りしていると、日々の処理に追われるだけで1日が終わる。夢や展望を語る余裕があるのは、余白のある人間の特権だとすら思えてくる。そんな自分を責める気持ちと、現実のしんどさの間で、何度も立ち止まってしまう。
仕事に追われるだけの毎日で、未来どころじゃない
朝から晩まで登記書類と格闘して、電話が鳴り止まない日常。お客さんの相談も、時に人間ドラマのようで、神経をすり減らすことがある。それでも淡々と処理していかないと仕事は終わらない。帰宅しても気が抜けず、結局パソコンを開いてしまう。そんな生活がもう何年続いているだろうか。夢の話をするには、まず「明日」が穏やかでないと無理だ。現実に引きずられたまま、希望の火がだんだん小さくなっていくのを感じてしまう。
「今を乗り切る」で精一杯な日々
週末は多少時間があるように見えるが、気づけば次週の段取りや準備に費やされて終わる。忙しいふりをしているわけじゃない。ただ、気を抜いた瞬間にミスが出るような世界だから、気を張り詰めているのだ。気づけば、「このままではいけない」と思いながらも、結局また「今日を乗り切ること」が優先される。そして、それが毎日続く。そうなると、「未来をどうしたいか」なんて話題は、ただの贅沢に思えてしまうのだ。
予定表は埋まっているのに、心は空っぽ
スケジュール帳は常に真っ黒だ。相談、手続き、郵送、準備、確認…見事なまでに埋め尽くされている。でも、その一方で「何かをやっている感覚がない」と思うことがある。効率よく業務をこなすためにルーチン化され、心を使わないようになってきたのかもしれない。人と会っていても、次の予定が気になって集中できない。そんな自分に気づいたとき、「自分はただの作業マシンになってる」と思ってしまう。
事務員さんの前では平気な顔をしているけど
うちには一人、事務員さんがいる。とても真面目でありがたい存在だ。だからこそ、こちらがあまりに疲れた顔をしていると、気を遣わせてしまう。なので、なるべく明るく、普通を装っている。でも実際は、帰宅して一人になるとぐったりして、ため息が出る日も多い。「大丈夫ですか?」って言われると、逆に「大丈夫なふりをしなきゃ」と思ってしまう。正直なところ、気を遣われるのが一番つらいのかもしれない。
たまには弱音も吐きたいけど、吐く相手がいない
友人付き合いも減って、飲みに行くこともほとんどなくなった。愚痴を言える相手がいない。SNSでうっかり弱音を書こうものなら、「ネガティブですね」とか「前向きに行きましょう」とか、逆に追い詰められる。だから黙ってる。それがまたつらい。昔は、話せばスッキリしたことも、今は「誰に話してもしょうがない」と思って飲み込む。その結果、自分の中でぐるぐる考え続ける羽目になる。
「いいですね、自由で」と言われる地獄
個人事業主であるがゆえに、外からは「自由でいいですね」とよく言われる。でも、それが一番こたえる。自由の代償は大きい。休んだら収入が止まるし、代わりもいない。責任も全部自分で背負う。実際は、時間に追われて、自分で自分を縛っているような生活だ。「自由」と「孤独」は紙一重だと、本気で思う。
将来の話を避けてしまう自分に嫌気がさす
未来を語る話題をふられると、つい笑ってごまかしてしまう。「まぁ、そのうち何か考えます」とか、「今はちょっと忙しくて」と言って逃げる。でも本当は、自分でもちゃんと向き合わなきゃいけないと思ってる。年齢を重ねるごとに、そういう「ごまかし」が通じなくなってきた実感がある。ふとした瞬間、自分で自分が情けなくなる。
「このままでいいのか」と夜に考えてしまう
夜、テレビもつけずに部屋の明かりだけでぼーっとしていると、「このままでいいのか?」という問いが浮かぶ。あえて答えを出さずに寝ようとするが、心のどこかがザワついて眠れない。「変わらなきゃ」と思っても、「どう変えればいいか」がわからない。将来の設計図が描けない。そもそも「設計図を描く」こと自体がしんどい。そんなとき、誰かに話してみたいと思うけれど、声をかける勇気が出ない。
仕事が落ち着いた瞬間に押し寄せる虚しさ
繁忙期が終わって、ほんの少し手が空くときがある。やっとゆっくりできる…と思った瞬間、なぜか虚しくなる。やることがないと、自分の空っぽさが露わになるからだろうか。「本当は何がしたかったんだっけ?」そんな問いが浮かぶ。でも、忙しさにかまけて、その答えからずっと目をそらしてきた。休めばいいのに、心が落ち着かなくて、ついまた何か始めてしまう。
同級生のSNSを見ると、やっぱり刺さる
たまに見てしまう同級生のSNS。家族との笑顔の写真、旅行の記録、子どもの成長報告…。比べる必要はないと思っても、心のどこかがザワザワする。「自分は何をしてるんだろう」そんな風に思ってしまう。別に羨ましいわけでもない。でも、眩しいのだ。その明るさに照らされて、自分の影ばかりが濃く見える。
それでも僕らは、誰かと繋がりたいと思っている
愚痴っぽい自分、弱い自分、語れない自分。そんな自分でも、どこかで「誰かと繋がっていたい」と思っているのは事実だ。未来を語ることができない今でも、「聞いてもらえる相手」がいるだけで救われる気がする。共感してくれる誰かがいるというだけで、心が少し軽くなるのだ。
未来を語ることで、ほんの少し救われるかもしれない
未来の話ができない時期があってもいい。でも、誰かにふと「こんな風になれたらいいな」と話してみるだけで、少しだけ気持ちが変わる。実現できるかどうかよりも、「語る」ことそのものに意味があるのかもしれない。話すことで、未来に名前がついて、ぼんやりしていた不安が輪郭を持ち始める。そう思うと、未来を語るのも悪くない。
相手に言うより、まず自分に言い聞かせている
「もっとこうなりたい」と誰かに言うとき、それは相手に向けた言葉というより、自分に言い聞かせていることが多い。だからこそ、語るのが怖い。口に出した途端、叶わなかった時の言い訳ができなくなる。だけど、それを乗り越えたとき、本当の意味での「始まり」がある気がしている。
共感されるだけで、人は少しだけ元気になる
誰かに「わかるよ」と言われるだけで、不思議と肩の力が抜けることがある。アドバイスなんていらない。ただ、「そうだよね」って言ってくれる存在がいればいい。未来を語るのが怖くても、「今の気持ち」を分かち合える人がいるだけで、次に進める気がしてくる。
無理に語らなくていい、でも心の奥で少しだけ描いてみる
未来を語ることがすべてではない。語れない日があってもいい。無理に前を向かなくてもいい。ただ、誰かと話すことで「今」を分かち合い、少しずつ自分の未来を見つけていけたら、それで十分だと思う。誰かに話す準備ができたとき、きっとそのときの「未来」は少し優しくなっている気がする。