静かなはずの部屋で鳴る音がつらい
司法書士事務所の一日は、静寂の中に始まる。電話も鳴らず、誰とも話さず、ただ目の前の書類と向き合うだけ。その環境がありがたいときもあるが、逆に、何も音がない中で響いてくる“タイピング音”が、ふとした瞬間にやけに耳に残ることがある。特に自分が思うように仕事が進んでいないとき、その音はどこか“責められているような音”に聞こえてしまうのだ。まるで「お前は何をしているんだ」と言われているような、不思議な重圧がある。
タイピング音がなぜか心に刺さる日がある
事務員の彼女がリズミカルにキーボードを叩いている。その姿は普通に見れば「仕事がはかどっている」証しだ。でも、自分が空回りしている日には、その音がどうにも神経に障る。そんな自分が嫌でたまらなくなる。音そのものはいつもと同じなのに、自分の心がザラついているだけ。そのことには気づいているけど、対処のしようがない。以前、風邪気味で集中力が落ちていた日に、なぜかタイピング音だけが強調されて聞こえ、つい「うるさい」と思ってしまったことがある。もちろん口には出せない。出せるはずがない。でも、心は確かに削られていた。
追い立てられるような気持ちになる瞬間
この仕事は、スピードも正確さも求められる。だが、どんなに頑張っても追いつけないと感じるときがある。そんなとき、他人の仕事が早く進んでいる気配は、自分が「遅れている」と実感させる材料になってしまう。タイピングの音は、その進捗の可視化だ。自分が手を止めた瞬間にも、カタカタという音だけが進み続けていて、焦燥感を煽ってくる。それがプレッシャーとなり、余計に手が動かなくなる悪循環。どこかでブレーキを踏まないと、心が先に壊れてしまいそうになる。
「自分だけが遅れている」感覚との戦い
他人と比べても仕方がないとは頭では分かっている。でも、同じ部屋で同じように働いていて、自分だけが手こずっていると、無性に自信がなくなる。まるで自分が“できない人間”に見えてしまう。司法書士という職業は、周囲に見えづらい努力が多い分、「目に見える成果」への執着が強くなる。だからこそ、音という「成果の音」が無言の評価として響いてくるのだ。黙ってタイピングする音が、沈黙の中での優劣を決める材料になってしまっている。
事務所に響く音の正体
タイピング音がなぜこんなにも心に影響を与えるのか。それは音そのものというより、「自分の心の余裕」の有無に起因している気がする。余裕がある日はまったく気にならないのに、そうでない日はまるで拷問のように感じる。その差はどこから生まれるのか。音に神経質になるのは、自分が「頑張れていない」と思っている証拠なのかもしれない。そう気づいても、ではどうすればその感情から抜け出せるのかまでは、まだ答えが出ていない。
事務員のタイピング音にイラつく自分が嫌だ
彼女に非はない。むしろ彼女がいてくれるから、自分は業務に集中できているし、感謝すべき存在だ。でも、イライラしてしまうのだ。人間だから仕方がない、という言い訳では済まされないと思ってしまうくらい、自分の小ささに落ち込む。そんなときは、なるべく表情を変えないようにしているが、たぶん気づかれているのだろう。気まずさだけが部屋に残る。そしてまた、自分を責めるというループにはまっていく。
冷静になればわかっているのに感情が止まらない
「たかが音」「気にしすぎ」と思える日はいい。でも、自分の中で負の感情が動き出すと、それを止めるのは本当に難しい。仕事を抱えすぎている日、思うように進まない日、体調が悪い日——どれも「音」がストレスとして浮き彫りになる条件になる。たった一つの音が、こんなにも精神状態に左右されるとは思わなかった。感情が暴走するのを止められない自分に気づいたとき、自分が「壊れかけている」と初めて実感した。
優しさとストレスの間で揺れる日常
自分は、怒鳴ったり物に当たったりするタイプではない。でも、だからこそ、静かなストレスがたまっていくのかもしれない。優しさとストレスは両立する。優しくあろうとする分だけ、自分を押し殺す場面が増えていく。そして気づいたら、タイピング音ひとつで心がざわつくようになる。誰かにぶつけるわけでもなく、ただ自分の中で、蓄積されていく。静かに、確実に。
自分のキーボード音ですらプレッシャーになる
情けない話だが、自分のキーボード音にすらプレッシャーを感じることがある。「今、自分は働いているんだぞ」と誰にともなくアピールしているような気持ちになる。それはたぶん、「できていない自分」を誤魔化すための自己防衛なのだろう。そんな風にしか働けない日があるというのが、司法書士としてというより、人間としてしんどい。
「仕事をしているふり」をしなければならない謎の義務感
本当は集中できていない。なのに、何かしている“ふり”をしなきゃという謎の圧力がある。書類に目を通しても頭に入らない。でもタイピングはする。意味もないメモを残す。まるで学生時代、勉強しているフリをしていた夜のようだ。自分で自分を騙しているだけなのに、少しだけ気が楽になる不思議。それが積み重なると、自己嫌悪だけが残る。
誰も責めていないのに、なぜか責められている気がする
事務所には、責める人間なんていない。いるのは、自分と事務員の二人だけ。なのに、責められている気がするのはなぜか。音が責めてくるのか、仕事の遅さが責めてくるのか、自分が自分を責めているのか。たぶん全部なのだろう。自意識という名の怪物は、ときに現実以上の重圧を与えてくる。誰も何も言っていないのに、心が騒がしい。
音に敏感な日=余裕がない証拠
結局のところ、「音に敏感になっている日」は、自分の心に余裕がない証拠だ。仕事がうまくいっているときは気にならない。むしろ気持ちいいリズムにすら聞こえる。そのギャップに気づくと、「音」そのものより「自分の状態」が問題なのだと見えてくる。ではその自分の状態にどう気づき、どう対処していくべきか。それが課題だ。
些細な音に心が揺れるときの裏側
誰しも、音や光、空気の流れに敏感になる日がある。理由は一つじゃないけれど、「何かが不安定だ」というサインであることが多い。タイピング音に対してイライラするのも、実は自分が「うまくいっていない」と感じているから。その裏側には、見過ごしてきた疲労や不安、孤独が潜んでいる。それに気づかずに音に反応してしまうと、余計に自分を追い詰めてしまう。
自分を労わるべきサインとしての「カタカタ」
逆説的だが、タイピング音が気になる日は「休むべき日」かもしれない。休める状況ではないとわかっていても、せめてコーヒーを一杯飲むとか、散歩をするとか、自分の中で“区切り”を入れることはできる。タイピング音をストレスの象徴として見るのではなく、「今の自分は疲れてるよ」と教えてくれるサインだと受け取ること。それだけでも、ほんの少しだけ気が楽になる。
解決にはならないけれど、向き合い方はある
タイピング音が気になる問題に、明確な“解決”はない。でも、“向き合い方”はある。完璧に遮断することはできないけれど、少しだけ心を整える工夫はできる。その小さな工夫が、音に追い詰められないための第一歩になる。
イヤホンをしてみる、音を楽しむ視点を持つ
どうしても気になるときは、ノイズキャンセリングのイヤホンが助けになる。クラシック音楽や自然音を流すだけで、だいぶ違う。あるいは、他人のタイピング音を「パーカッション」と捉えてみるのも手だ。現実は変えられなくても、捉え方は変えられる。少しでも自分が楽になる方法を、臆せず試してみたい。
それでもダメな日は、無理しないと決める
工夫をしてもどうしてもダメな日はある。そんな日は、自分に「今日は無理する日じゃない」と言ってあげることが大事だ。タスクを一つ減らしてもいい。書類整理を後回しにしてもいい。「できること」よりも「壊れないこと」を優先する。それが、自分を続けていくために必要な態度だと、最近やっと思えるようになってきた。