はじまりは一本の電話
朝の事務所に響いた不穏な声
「登記のことで、ちょっと相談がありまして…」
その声は震えていた。受話器の向こうで、女性が何かに怯えているような口調だった。
午前10時、書類の山に埋もれていた私は、少し眉をひそめながらメモを取り始めた。
依頼人は向かいのアパートの住人
「お向かいの佐原です」と名乗った女性は、私の事務所の窓からも見えるアパートに住んでいた。
話を聞くと、隣人の家に誰かが住みついていて、しかもその家の名義が最近になって変更されていたという。
不動産の登記変更は珍しくないが、どうにも様子がおかしいという。
奇妙な土地の名義変更
登記簿に記された不自然な日付
確認のために登記情報をオンラインで取り寄せた。
名義変更はたしかに最近行われていた。だが、変更理由が「贈与」であり、しかもその日付が十年前になっていた。
通常なら贈与契約と登記はもっと近い日付になるはずだ。
所有者が語る矛盾した証言
私は名義上の新しい所有者である「西田」という人物に電話をかけた。
しかし彼は「実家を相続しただけ」と話し、贈与されたという事実を否定した。
しかも、今そこに住んでいるのは自分ではなく「親戚の世話人」だという。
サトウさんの冷静な分析
「この住所、実はおかしいですね」
「シンドウ先生、この住所…おかしいですよ」
サトウさんがそう言って、プリントアウトした登記簿を指差す。
「番地が途中で変わってます。旧表示と新表示が混在してます」
書類の不備から読み取れること
登記変更には所有権移転の根拠が必要だ。
にもかかわらず、その添付書類の欄が「添付省略」となっているのは不可解だった。
つまり、誰かが意図的に抜け道を使っている可能性がある。
近所の噂と静かな違和感
消えた老女と空き家の真実
「あの家のおばあちゃん、数年前から見てないんですよ」
依頼人の佐原さんは、ためらいながらそう言った。
「でも、死亡記事も見かけなかったし、家族がいた様子もなかったんです」
昔の登記簿に記された別人の名前
私は古い登記簿を確認した。
すると、10年前まで所有者は「佐原 澄江」となっていた。
つまり依頼人と名字が同じなのだ。
司法書士としての直感
「この件、放っておくとまずいかもしれない」
これは単なる登記ミスではない。
私はそう確信し、眠っていた直感が目を覚ますのを感じた。
「やれやれ、、、本当なら今ごろ、不動産の抵当権設定の申請をやってるはずなんだが」
元野球部の勘が騒ぐ瞬間
バットを振る前に感じる、微妙な違和感。
司法書士にも、同じような「勘」が働くことがある。
私はすでに、疑惑の芯を見つけていた。
調査開始と役所での驚き
住民票の除票に残された記録
市役所で調べると、澄江さんの住民票は「転出扱い」になっていた。
転出先は東京都内の老人ホーム。
しかし、そこに問い合わせると「そのような方はいない」と言う。
死亡届が出ていないという事実
それでも死亡届は出ておらず、戸籍上ではまだ「生存」扱いのまま。
つまり、彼女は行方不明だが、死亡扱いにもなっていない状態。
これは相続でも贈与でもなく、第三者による「乗っ取り」が疑われる。
過去の売買契約と疑惑の筆跡
契約書に残る不自然な署名
提供された贈与契約書には澄江の署名があった。
だが、昔の手紙に残っていた筆跡と比べてみると、明らかに異なる。
誰かが偽造しているのだ。
筆跡鑑定で浮かび上がる別人の存在
知り合いの元刑事に依頼し、簡易筆跡鑑定を行った。
結果、署名はまったく別人のものだと断定された。
「サザエさんで言えば、波平の字にマスオが似せた感じですね」と元刑事は笑った。
サトウさんの決定的な指摘
「これ、本人じゃなくて誰かがなりすましてますね」
「この偽造、もしかして身内の誰かじゃないですか?」
サトウさんの言葉に、依頼人の表情が凍りついた。
「もしかして…兄です」
司法書士ならではの視点からの真相
名義変更の書類に添付されていた住民票の写しも、精査すると加工の痕跡があった。
司法書士の目をごまかせるような代物ではなかった。
不動産の名義は、偽造によって奪われていたのだ。
真犯人との対峙
「やれやれ、、、結局こうなるのか」
兄とされる男は、静かに頷いた。
「母は施設で亡くなった。でも、あいつの面倒を見たのは俺だ」
だからといって、法律を破っていい理由にはならない。
静かに語られる動機と過去
男は語った。
親に感謝されずに生きてきた苛立ち、財産に対する当然の権利意識。
「正直、誰にも責められたくなかった」その声は哀しかった。
事件の幕引きとその後
依頼人の涙と向かいの家の灯り
佐原さんは泣いていた。
「兄が…そんなことを…」
その夜、長らく灯っていなかった向かいの家に灯りが戻った。
またひとつ、登記簿が語った真実
登記簿はただの記録ではない。
そこには人の欲、愛憎、過去が刻まれている。
そして、今回もまたその「記録」が真実を導き出したのだった。