手書き書類なんて非効率…と思っていた頃の自分へ
司法書士として仕事を続ける中で、どうしても効率を求めがちになる。特に独立してからは、自分が動かないと収入も信用も止まってしまうというプレッシャーがあるから、少しでも時間短縮になる手段を選ぶようになる。だからこそ、デジタル化の波にはすっかり乗っていたし、「手書き書類なんて時間の無駄」とすら思っていた。そんな自分に、いつか「それじゃ拾えないこともあるぞ」と言ってやりたい。最近、それを思い知らされた出来事があった。
全部デジタルで完結できるはずだった
オンライン申請、チャット対応、電子契約書。いまや司法書士の業務もほとんどデジタルで回せる時代になった。効率はいいし、誤記も少ない。お客さんにもメールで済むのはラクだと言われる。でも、なんだか味気ない。そう思うこともあったが、それでも「手書きなんて過去の遺物」と割り切っていたのだ。ある日までは。
効率化こそ正義。そう思っていた
一人事務所である以上、時間の使い方は死活問題だ。事務員さんも頑張ってくれてるが、僕の分までカバーできるわけではない。だからこそ、「いかに早く」「いかに正確に」処理するかばかり考えていた。文書作成はテンプレート化、連絡はメール一括送信。人情味なんてなくても、ちゃんと登記が通ればそれでいいだろう、と。
「紙でお願いします」と言われたときの面倒くささ
ところが先日、あるご高齢の依頼者から「やっぱり手紙でやりとりしたいんです」と言われた。正直、「えぇ……」とため息が出た。FAXすらないご家庭。書いて、封筒に入れて、切手貼って、郵便局。効率のかけらもない。でも「どうしても手書きで伝えたいことがある」との言葉に、渋々了承した。そこには、想像を超える意味があった。
ある日届いた、一通の手紙
その手紙は、事務所に戻った日の夕方、ポストに入っていた。封筒の色も紙も、どこにでもあるもので、文字は少し震えていて読みづらかった。でも、見た瞬間に何か胸が締めつけられた。印刷物とは違う「人の手のぬくもり」が、封を切る前から伝わってきた。
封筒の文字を見た瞬間、胸がざわついた
筆圧が強くて、ところどころインクがにじんでいた。名前の文字だけが妙に丁寧で、「この人は名前を書くときだけ、特別な気持ちがあるのかもしれない」なんて勝手に想像してしまう。そこには“人”がいた。機械が出したような均一さではない、不器用だけど一生懸命な痕跡があった。
“依頼者の気持ち”がにじむ文字
内容は、「先日は親身になってくださりありがとうございました」という感謝の言葉と、「家族のことを誰にも話せなかったけど、先生には話せて安心しました」という一文だった。その一文だけで、一気に胸が熱くなった。僕は仕事として接していたけれど、相手にとっては人生の節目だった。そこに、手書きという手段が、確かに必要だったのだ。
手書きの破壊力に、思わず泣けた
どうしてだろう。人の字を見て泣いたのは初めてだった。たどたどしくても、直された文字があっても、それが愛おしかった。感情がぶわっと押し寄せてきて、気づけば僕は、依頼者の人生にほんの少しでも関われたことを誇らしく思っていた。効率ではなく、“存在”がそこにあった。
手書きには、証拠にならない何かがある
司法書士という職業柄、「証拠」「記録」「形式」にばかり目がいってしまう。もちろんそれは大事だ。でも手書きの文字には、そんな法的な効力を超えた「空気」や「体温」がある。文字が少し右に傾いているとき、それは何か急いで書いたのかもしれない。文字が小さくなっていたら、遠慮している気持ちかもしれない。
AIには真似できない“揺れ”や“よれ”の意味
AIで文字起こしをする時代になっても、人の手による揺れやブレには独特の力がある。それは「うまく伝えられないけど、どうしても伝えたい」という気持ちの表れだと思う。僕たち司法書士が相手にするのは、人の生活そのもの。ならば、こういう“人間味”をちゃんと受け取れる感性を忘れてはいけないんだと、あの手紙が教えてくれた。
書いた人の生活と気持ちがにじみ出る
その手紙には、漢字の間違いや文法の乱れもあった。でも、それがむしろリアルだった。綺麗に整っている言葉には出せない、必死さがあった。生活の中でペンを取り、震える手で書いたであろう時間の重み。それが、真っ直ぐ心に響いた。きっと、僕たちが求めている“誠実さ”って、こういうことなのかもしれない。
書類の角に貼られたメモひとつに救われる夜もある
別件では、書類に貼られていた「ここに母の名前が抜けています」と小さく書かれた付箋で、申請ミスを防げたことがある。あの時も、ただの“手書きメモ”に救われた。効率ばかり追うと、こうした人の気づきや優しさを見落としてしまう。だから僕は、今も机の引き出しにあの手紙をしまってある。忙しいときこそ、開いて読み返す。
司法書士という職業において、心をすくう瞬間
この仕事は、淡々としていて、時に虚しくなる。依頼人の人生の通過点として関わるだけで、終わったら忘れられることも多い。でも、たまにこうして「あなたでよかった」と言われることがある。その一言のために、踏ん張っていけるような気がする。手書きの手紙は、そんな原点を思い出させてくれる。
法務だけでは割り切れない“人との関わり”
僕たちの仕事は、法務の範疇で完結しているように見えて、その実、人との関係性の中にある。人が悩み、不安を抱えて書類を手にして事務所に来る。その時点でもう、法律だけじゃ割り切れない世界が広がっている。だから、手書きの書類一枚で救われる瞬間が、確かにあるんだと思う。
人は理屈よりも、温度で動く
世の中がどれだけ合理化されても、人の心はまだまだ“温度”に動かされる生き物だと思う。形式的に正しくても、冷たい対応をされたら嫌になる。それよりも、不器用でも心のこもった一言が救いになることもある。司法書士という職業の根底には、そういう「温度への感受性」が必要なんじゃないかと最近よく思う。
独身司法書士、紙と向き合ってわかったこと
独身で、誰にも愚痴を言えない夜もある。そんなとき、一通の手紙や書類の端に書かれた一言が、救いになることがある。「まだ誰かとつながってる」と思えるだけで、少し気持ちが楽になる。だから、手書きは捨てたもんじゃない。むしろ、こんな時代だからこそ、意味がある。
誰かの想いに触れると、少しだけ孤独が癒える
日々の業務に追われていると、自分がただの書類製造マシーンのように思えてくる。でも、ふと届いた手紙や、昔の依頼人からの近況報告を見ると、「人と関わってる仕事なんだ」と気づかされる。そういう瞬間が、独身司法書士の心を支えてくれる。
デジタルより“ぬくもり”がほしい日もある
全部オンラインで完結する世界。便利だけど、なんだか冷たい。ときどき無性に、人の手で書かれた文字を見たくなる。読みづらくてもいい。そこに感情や時間や願いが詰まっていれば、それだけで救われる日がある。効率なんて、少しくらい落ちてもいいじゃないか。そう思えるようになった自分が、ちょっとだけ好きだ。