気づけば寂しさが日常になっていた
開業して何年も経ち、気がつけば一人で過ごす時間に何の違和感も覚えなくなっていた。司法書士の仕事は依頼があれば集中して取り組むが、ふと手が空いた瞬間に気配のない事務所で時間だけが静かに流れていく。誰かと笑った記憶が思い出せない日が続くうちに、「こんなものだろう」と思い始める。最初は孤独が辛かったはずなのに、今ではその孤独にすら慣れてしまっている自分が、時折、無性に怖くなるのだ。
電話の鳴らない日々に慣れてしまった
開業当初、電話が鳴らない日は不安だった。今日も依頼が来ない、このまま仕事がなくなったらどうしよう、と焦っていた。でも今は、電話が鳴らなくても「まあ、そんな日もあるか」と流せるようになった。事務員の彼女が雑談でもふってくれれば少し救われるのだが、彼女も忙しく動き回っていて、話すタイミングも見つからない。ふとした瞬間、「今日、誰ともまともに話してないな」と思って、少し胸がざわついた。
依頼の有無ではなく 人の気配が恋しい
仕事があるかないかじゃない。人の気配がするかどうか、それが今の自分にとっての問題だと気づいた。たとえば近所のカフェに行って、周囲の会話をなんとなく耳にするだけで、安心することがある。仕事中に無音の事務所にいると、自分のキーボードを叩く音だけが響いて、まるで洞窟の中にいるような気分になるのだ。人がいるだけで、こんなに違うのかと実感する瞬間がある。
人と話すのが面倒になった時が危険信号
もっと怖いのは、人と話すのが「面倒」だと感じるようになった自分だ。電話が鳴っても一瞬出たくないと思ってしまうし、知り合いに偶然会っても「また今度話そう」と言い訳をしてしまう。昔の自分なら、少しでも人と関われることが嬉しかったのに、今ではそれすら億劫だ。人と関わらなくなると、感情が鈍くなっていくような気がして、それが一番怖いのだ。
誰とも関わらない生活の心地よさと怖さ
一人でいることに慣れてくると、それはそれで心地よくもある。誰にも気を遣わず、予定も自分の裁量で動かせる。だけどその心地よさは、時として自分を閉じ込める檻にもなりうる。誰とも関わらないことで、自分自身の感情に鈍感になり、優しさや思いやりさえも忘れてしまうような気がする。心地よさと引き換えに、大切な何かを手放しているのではないか、そんな不安がよぎる。
仕事だけしていれば良いという錯覚
毎日、登記や相続、法人の手続きなど、業務に追われていれば時間はあっという間に過ぎる。気づけば夜、そしてまた朝が来る。「仕事があるから大丈夫」と自分に言い聞かせていたけれど、本当にそれで良かったのだろうか。仕事のない休日にぽっかり時間が空くと、まるで自分の存在が空っぽになったような感覚になる。仕事は生きる理由ではなく、ただの手段のはずだ。
孤独を言い訳にして努力を忘れる
「どうせ一人だから」「誰も見ていないから」と、努力をサボる理由にしてしまうことが増えた。身なりも適当、昼はコンビニ、夜は酒。昔なら人の目を気にしていたはずのことが、今ではどうでもよくなってしまった。孤独に慣れるということは、言い訳が上手くなるということなのかもしれない。それがまた、自分を甘やかしていることに気づくのが怖い。
一人の気楽さは麻薬みたいなもの
一人は気楽だ。でもその気楽さに甘えすぎると、戻れなくなる。一度味わうと、それなしでは生きられないほど中毒性がある。まるで麻薬のようだ。人と関わるにはエネルギーがいる。気を遣い、言葉を選び、気配りをする。その一つひとつが面倒で、つい一人の世界に閉じこもってしまう。でもその先にあるのは、安心ではなく、静かな孤独だ。
ふとした瞬間に襲ってくる虚しさ
忙しさに紛れて見ないようにしている心の隙間は、ふとした瞬間に顔を出す。夕飯を買いに立ち寄ったスーパー、テレビから流れてくる笑い声、同年代の家族連れ――どこかに自分の居場所がないような気がして、胸が締めつけられることがある。普段は平気なふりをしていても、その瞬間だけは誤魔化しようがない。
コンビニのレジですら会話に飢えていた
先日、コンビニでレジのおばちゃんに「いつもありがとうございます」と言われた時、思わず涙が出そうになった。たったそれだけの一言で、どれだけ心が救われるか。その時、自分がいかに人と会話していなかったかに気づいた。司法書士という仕事柄、形式的なやりとりは多いけれど、心のこもった言葉のやり取りは意外と少ない。それが、こんなにも寂しいものだとは思わなかった。
元野球部なのに孤独に弱いのはなぜだろう
高校時代、野球部で毎日仲間と一緒だった頃が懐かしい。グラウンドに響く声、笑い、悔しさ、全てを共有していた。あの頃の自分は、人と過ごす時間が当たり前だった。今はどうだろう。ひとりぼっちで昼食を食べ、黙々と書類を整理する日々。あの頃の自分が今の姿を見たら、なんて言うだろうか。強かったはずの心が、いつの間にか、静かに折れてしまっていた。
独身生活の自由と引き換えに失ったもの
確かに自由だ。誰に干渉されることもなく、好きな時に働き、好きなものを食べ、寝たい時に寝る。でもその自由の代償として、分かち合う相手もいない。誰かのために何かをすることもない。気づけば、自分の人生なのに、自分の意思だけで動いていないような、どこかぼんやりした日々になってしまった。自由は本当に幸せなのだろうか。
どうしても人と比べてしまう夜がある
「人は人、自分は自分」なんて、建前だ。夜、布団の中でスマホを見ていると、どうしても人と自分を比べてしまう。同期が家庭を持ち、幸せそうな写真をアップしているのを見ると、心のどこかがズキッとする。別に羨ましいわけじゃない、そう思いたい。でも本当は、羨ましさと寂しさが入り混じっている。
家庭を築いた同期たちと自分の差
「まだ独身なの?」と何度言われただろう。いや、言われなくなった今のほうが寂しいかもしれない。結婚式の招待も来なくなり、子どもの話題にも入れない。同期は「家族サービスが大変だよ」と言うけれど、その大変さを一度でも味わってみたいと思ったことがある。司法書士として生きることを選んだ自分と、家庭を持った彼ら。そのどちらが正解なのか、わからなくなる。
SNSで幸せそうな投稿を見ない努力
SNSを開けば、幸せそうな誰かの投稿が目に飛び込んでくる。旅行、出産、誕生日会。見なければいいと分かっていても、なぜか開いてしまう。まるで自分を傷つけたいかのように。見ない努力をしても、スマホの中にある小さな世界に、気持ちが揺さぶられる。そして、スマホを閉じた後に訪れるのは、いつもの静けさと、変わらぬ孤独だ。
比べなければ楽なのに 比べてしまうのが人間
比べたって意味がないと分かっていても、つい比べてしまう。それが人間だ。司法書士という仕事は、独立しているからこそ、自分の足元だけを見つめていればいい。でもそれができない。心が弱いから、誰かの成功や幸せと自分を比べてしまう。「あの人みたいに強くなりたい」と思いながら、今日もまた、静かな事務所でひとり、パソコンの前に座っている。