なぜ月初と月末がこんなにも重くのしかかるのか
月初と月末。カレンダー上ではただの数字の並びなのに、僕の中では「圧」が違う。たとえるなら、マウンドで2アウト満塁のピンチが永遠に続くような感覚だ。月初は「請求」の山に追われ、月末は「登記完了」の締切に追われる。しかもその間に“平穏な中旬”なんて幻想で、何かしらのトラブルがねじ込まれてくる。心が休まる瞬間がない。気がつけば手帳を睨みながらため息をつく毎日。誰かに「休めば?」なんて言われても、心の中で「代わってくれるのか?」と返してしまう。
カレンダーを見るだけで動悸がする
カレンダーを開いた瞬間、まず赤い丸印に目が行く。「納期」「支払期限」「決済」…もはやホラー映画の呪文みたいな言葉が並んでいる。手帳はスケジュールを整理するための道具じゃない。僕にとっては自分が“何に追い込まれているのか”を確認するための拷問装置になっている。クライアントには「柔軟に対応します」と言いながら、自分の心はどんどん硬直していくのがわかる。カレンダーを見て吐き気がするというのは、ちょっと大げさだけど本音だ。
月初は請求書地獄
請求書を出さないと仕事にならない。わかっている。でも、あの作業には妙な精神的疲労がある。金額の入力ミスは言い回しひとつで印象が変わるのも気を遣う。「少しでも失礼がないように」「でも事務的に」…その中間を狙って書くから、何度も何度も読み直してしまう。夜10時過ぎに1人、オフィスで数字と向き合っていると、なんでこんなに孤独なんだろうとふと感じる。
締め切りじゃなくて始まりがつらいという矛盾
「月初」って、普通は“スタート”のはず。でも僕にとっては“請求で神経をすり減らす期間の始まり”だ。月が変わるたびに、「また今月も始まったか」と気が重くなる。たとえるなら、連敗が続く野球チームが次の試合を迎えるようなもの。勝つ気力も湧かないまま、とりあえずグラウンドに出る。そんな気分だ。
月末に近づくたびに心がささくれる
月末は月末で、別の地獄が待っている。登記の締切は待ってくれないし、銀行や役所の窓口は17時で閉まる。時間との戦い。まるで、延長12回裏の守備を1人で守ってるようなもの。しかも、どこかでトラブルが起きれば一気にパニックだ。焦って入力ミス、訂正印、顧客への謝罪…ひとつ崩れるとドミノ式。正直、月末が近づくとピリピリして、事務員さんに対しても申し訳ない態度になってしまうことがある。
登記の山と「まだですか」の問い合わせ
書類の山を前に、ひとり肩を落とす。そこに追い打ちのように「登記、まだですか?」と電話が鳴る。もちろん急いでるのはわかる。でも、その電話1本が、僕の集中を3時間分くらい吹き飛ばすこともある。しかも、口調がキツいと余計に堪える。ひとつの登記の背景に、何十もの手続きとやり取りがある。それを“まだ?”で済まされると、正直やる気が削がれる。
ひとり司法書士の限界
スタッフが5人いれば、違ったかもしれない。でも、現実は事務員さんと僕の二人三脚。彼女はよくやってくれている。それでも、やっぱり物理的に追いつかない日もある。役所に走って、書類を作って、確認して、電話対応して…。仕事をするたびに、体力と心を削っていく感覚がある。まるで全打席フルスイングしてるような状態。バテないわけがない。
事務員さんのやさしさに泣きそうになる
ある日、僕が明らかにイライラしていた日。事務員さんが帰り際に「チョコレートどうぞ」と小さな袋を渡してくれた。何気ない気遣い。でもそれに救われた。たぶん、自分が限界近いことに気づいていたのは彼女の方だったのかもしれない。大人になると、誰かに優しくされるだけで涙腺が緩む。そんなことがある。
中旬という名の中継地点にも安息はない
「月初のピークを乗り越えたら少し落ち着くかな」と思っていた新人時代。甘かった。中旬には中旬の処理や確認事項が山積みで、気が抜ける時間なんてない。例えるなら、ランナーを三塁まで進めたところで監督に「もう一周して」と言われた感じ。休む間もなく次の仕事。だから常に“どこまで終わったか”ではなく“どこまで遅れているか”が頭にこびりついている。
思ったより早い月末の足音
感覚的に、月末は28日くらいからが勝負だと思っていた。でも、気づけば25日にはもう「月末モード」に突入している。カレンダーを二重三重に見返し、手帳には赤線。焦りだけが募って、段取りが崩れ始める。そして、それを取り戻そうとさらに無理をする。この繰り返し。月末は、体感で一週間早く来る。
月初の疲れが抜けないまま次の波が来る
理想を言えば、中旬で一度リセットできるはず。でも現実は、月初の疲れがずっと残っている。寝ても疲れが抜けない。ご飯も味がしない。毎月のように「この生活いつまで続けられるかな」と思う。でも、誰に相談すればいいのかもわからず、結局そのまま次の月へ。まるで延々と続くランニングのように、止まりたくても止まれない。
独身であることとこの疲れの関係
「一人だから気楽でいいね」と言われることもある。でもそれは違う。確かに誰かに気を遣う必要はないかもしれないけど、逆に誰も気づいてくれない孤独がある。誰かが夕飯を用意して待ってくれているわけでもないし、帰宅しても部屋は静まり返っているだけ。誰とも話さずに一日が終わる日もある。そんなとき、疲れの種類が変わる。
誰とも話さず終わる日がある
電話やメールのやりとりはあるけれど、“会話”がない日も珍しくない。事務員さんが休みの日なんて、誰とも言葉を交わさず一日が終わることもある。音のない夕方。外が少しずつ暗くなっていく中、パソコンの光だけが部屋を照らしている。その光景に、ふと「これが一生続いたら…」と不安になることがある。
気を紛らわす夜の野球中継だけが救い
夜はテレビで野球を流している。プロ野球の結果がどうでもいい日もある。でも、打席に立つ選手の顔やベンチの表情を見ると、なんとなく“戦っている人”に共感する自分がいる。僕も、こんなふうに一球一球をこなしてるのかもしれない。点が入るたびに少し元気をもらい、負け試合に苛立ちながらも画面を切らない。それが今の僕の生活の一部だ。
同じように働く誰かへ伝えたいこと
この生活が正解なのか、自分でもわからない。でも、同じように悩みながら働く誰かがこの文章を読んで、「自分だけじゃない」と思ってくれたら、それだけで少し救われる気がする。疲れを口にすることは、甘えじゃない。逃げでもない。ただ、人間らしさだと思う。
「疲れた」と口に出すことの大切さ
昔の僕は、疲れていても「大丈夫です」と言い続けていた。でも今は違う。信頼できる人には「今日はしんどい」と言うようにしている。それだけで少し楽になる。自分の中で閉じ込めていた気持ちを、少し外に出すだけで呼吸がしやすくなるから。不思議だけど、それだけで次の日の仕事が違ってくる。
それでも仕事を続けている理由
じゃあ、なぜやめないのか?と聞かれれば、「それでも誰かの役に立てているから」と答えるしかない。依頼者の「ありがとう」は、月初と月末の苦しさを一瞬忘れさせてくれる魔法の言葉だ。仕事を通じて感じる手応え。それが、まだ自分を支えてくれている。
自分を少しでも褒めてやりたい夜
今日もなんとか乗り越えた。誰にも褒められないけど、僕は知っている。この日を越えるのに、どれだけの気力が必要だったか。夜、自分にだけは「よくやった」と声をかけてやりたい。明日もまた、月初か月末か、何かに追われるだろう。でも、今夜だけは少し肩の力を抜いてもいい気がする。