昼ごはんのコンビニパスタに飽きた男が抱えるどうでもよさと疲れ

昼ごはんのコンビニパスタに飽きた男が抱えるどうでもよさと疲れ

昼ごはんが楽しみじゃなくなった日

かつて昼休みは小さな楽しみだった。忙しい中でも「今日は何を食べようか」と考える余裕があったし、新しい店を見つけるだけで気分が明るくなったものだ。それが、最近では「どうせコンビニパスタなんだろ」という諦めに変わった。選ぶことすら面倒になり、ただ生きるために食べる。司法書士としての業務の合間、唯一の息抜きのはずの昼が、むしろ「義務」のようになっている。

いつからかルーティンになっていたコンビニ通い

事務所の近くには飲食店がほとんどない。駅前までは車で5分ほどだが、わざわざ行くのも億劫だ。そうして足が自然とコンビニに向くようになった。最初の頃は、週替わりの新商品にちょっとしたワクワク感もあったが、それも今は昔。気がつけば、毎日のように同じ棚に並んだパスタを無言で取っている。「またこれか」と思いながらも、他の選択肢を考える気力がない。

選ぶ気力もなくなってパスタを手に取る日々

同じ味、同じパッケージ、同じレンジ時間。そんな単調さが、自分の生活そのものを象徴しているように感じる。いや、生活どころか、仕事のリズムや気分まで単調に引きずられているようだ。もっとちゃんと自分を労ってやればいいのに、どこかで「まぁ、こんなもんだろ」と妥協している自分がいる。昼のパスタは、自分が自分に興味を持たなくなっている証かもしれない。

今日は何味にするかじゃなく何でもいいに変わった

たとえば、ナポリタンか和風きのこかミートソースか、そういう選択すら最近は投げやりになってきた。「何でもいい」は、本当は「どうでもいい」と同義だ。選択肢があるのに、選ぼうとしない。人生の小さな場面でさえこうなら、大きな決断の時にはどうなるのか。そんなことを考えながら、結局今日も、レンジに同じパスタを入れている自分がいる。

司法書士という仕事の性質が生む昼の虚無

司法書士の仕事は、見た目以上に神経を使う。書類の記載一つ、印鑑の位置一つで取引全体が止まることもある。緊張感の中で午前を終えると、昼ごはんに求めるのは「刺激」ではなく「安心」になってくる。慣れ親しんだ味、失敗しない食事。それがコンビニパスタにたどり着く理由なのかもしれない。だがその安心は、やがて退屈に変わっていく。

時間を奪われるというよりも自分を失っていく感覚

「忙しいから」と言い訳しているうちに、気づけば自分の好みや欲求を置き去りにしている。以前は月に一度は外食していたのに、最近はそういうことも減った。「自分に手をかける」ことがめっきり減ったのだ。それは、時間を誰かに奪われているというより、自分が自分の扱いをぞんざいにしている感覚。そんな積み重ねが、昼の虚無感につながっているのだろう。

誰かと食べることすら煩わしくなる時がある

「一緒にランチでもどうですか?」と誘われても、正直気が乗らない。食事に気を遣うより、無言で食べて終わりにしたい気分の方が勝る。気を遣う体力すら残っていないのかもしれない。昔の自分なら、ちょっとした会話もリフレッシュになっていたはずなのに。人との関わりすら避けるようになった今、自分の内側がどんどん硬くなっている気がする。

事務所という名の孤独

「先生」と呼ばれる立場であっても、実態はただの小規模事業者。事務員さんがひとりいてくれるだけでもありがたいが、同時に「対等な雑談相手」ではない。その距離感が、ふとした時に寂しさを呼び起こす。誰にも話せない愚痴、抱え込むしかない責任。そんなものを抱えていると、コンビニで選ぶパスタすら、どこか物悲しく映ってしまう。

たった一人の事務員が気遣ってくれても響かない心

「今日は暖かいですね」「午後の予約、私が確認しておきますね」――そんな優しさが、逆に胸に刺さる。ありがたいと思いながらも、それにどう応えていいのかわからない。自分の余裕のなさを、誰かの気遣いで思い知らされるのがつらい。事務所の空気は穏やかだけど、どこかで常に「ひとり」を感じている。心が疲れていると、他人の温度も遠く感じるものだ。

気楽なようで気楽じゃない小さな組織の重み

大きな組織ではないからこその自由さはある。でも同時に、「自分しかいない」という責任感も背負うことになる。休んでも誰かがカバーしてくれるわけじゃない。そう思うと、どこにも隙が作れない。だからこそ、昼ごはんひとつとっても気力が湧かないのだ。栄養とか味とかより、「考える余裕がない」が正しいのかもしれない。

結局何に疲れているのかも分からない

仕事のせいか、環境のせいか、歳のせいか。最近の疲れの正体がよく分からない。でも確かに、何かがすり減っている感覚だけはある。昔はパスタを食べながら笑えるテレビを観ていたのに、今ではスマホで無意味にニュースを眺めている。体は座っているのに、気持ちはどこにも向いていない。そんな昼の過ごし方が、疲れを余計に長引かせている。

自分が選んだ仕事なのにどこかで不満を抱えている

司法書士になったのは自分の意志だった。でも、だからこそ「愚痴を言ってはいけない」と思ってきた。責任感ゆえに、ネガティブな感情を封じてきたのかもしれない。けれど、飽きたパスタひとつにすら敏感に疲れを感じる今、そろそろ「自分にも愚痴を許していい時期」なのかもしれない。弱さを受け入れることが、次の一歩への準備になる気がしている。

忙しいは免罪符にならないと分かっている

「忙しいから仕方ない」と言い訳し続けることで、何かを置き去りにしている実感はある。本当は、少しの変化でも日々は変えられると分かっている。だからこそ、忙しさに甘えることはもうしたくない。でも、その決意すら、レンジに入れるパスタの前で薄れていく自分が情けない。強くなりたいのか、休みたいのか、自分でも分からない。

それでもまた昼が来る

翌日もまた、午前の業務が終わると腹が鳴る。そして自然とコンビニに足が向かう。「また今日もか」と思いつつも、何も変えられない自分にため息をつく。けれど、そんな日々の中にも、小さな希望を見出したい気持ちが残っている。たとえば、少し遠くのパン屋に行ってみるとか、弁当を作ってみるとか。わずかな違いが、心に風を通してくれるかもしれない。

同じ棚のパスタと同じような一日

人生は、コンビニのパスタ棚のようなものかもしれない。選択肢はあるのに、選ばない自分がいる。変えたいのに、変えるのが億劫で後回し。けれど、その中でも「何か新しいものを選ぼう」と思える日は、自分にとって小さな革命なのかもしれない。毎日は同じように見えて、実はちょっとずつ違っているのだと、信じてみたくなる時がある。

ちょっとだけ違うことをしてみる勇気

変化は大きなものでなくていい。ほんの少し、意識を向けてみるだけでいい。今日はコンビニのパスタじゃなくて、冷凍チャーハンにしてみる。それだけでも十分だ。大切なのは、「自分が自分に手をかけてあげる」という感覚。忙しくても、疲れていても、それを忘れなければ、自分を見失わずに済む。パスタに飽きたことは、ある意味で自分からのSOSだったのかもしれない。

ちゃんと味わうことから始めてみた

最近、意識して食べるようにしている。スマホを見ずに、パスタの味に集中する。すると、いつもより塩気が強いなとか、トマトが甘いなとか、些細な発見がある。その「感じ取る」ことこそが、心の再起動になるのかもしれない。味に飽きたのではなく、感じることを忘れていたのだ。そんな自分を取り戻す一歩として、今日の昼ごはんは、ちゃんと味わってみようと思う。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。