静かな雨と一通の封筒
午後の事務所に、しとしとと降る雨の音が静かに染み込んでいた。郵便受けに届いた一通の茶封筒を手に取ると、重みがある。差出人名はなく、中には登記申請書の写しと鍵が一本。お決まりの嫌な予感が、背中を走った。
「また変な案件じゃないでしょうね」塩対応のサトウさんが、ちらりと視線だけよこす。気圧のせいか、体が妙に重い。「やれやれ、、、」と愚痴が漏れた。
昼下がりの事務所に届いた違和感
封筒に同封されていた登記申請書には、既に死亡した人物の名が所有者欄に記されていた。添付書類がない。登記申請日も空欄のままだ。形式をまるで知らない素人が書いたか、もしくは逆に、知りすぎている者の仕事か。
それにしても、死者の名を騙って土地を移転させようとするなど、ちょっとやそっとの胆力じゃない。何かがひっかかる。何かが。
登記申請書の奇妙な空白
サトウさんが電子閲覧で戸籍と登記簿を確認し、即座に指摘した。「この被相続人、火災で死亡したとされてます。火災からまだ一ヶ月ですよ」登記の申請者が自分を「相続人」と書いているが、その戸籍にも住民票にもその名前が見当たらない。ゴーストのような存在。
「つまり、この登記は死体の上に乗ってるわけか」と俺が呟くと、サトウさんは「シャレが効いてますね」と、棒読みで返した。
所有者欄に書かれた既に死亡した名前
登記簿には火災前の所有者名がそのまま残っていたが、火災保険の記録を見ると家屋は全焼、住人死亡と記載されていた。なのに、死亡届も遺産分割協議書もない。
それはまるで、死んだはずの人間が、登記簿の中だけで生きているような奇妙な感覚だった。
謎の依頼人と無言の手数料
その日の夕方、雨の中、事務所に現れたのは中年の男だった。無言で封筒を置き、軽く会釈して去ろうとする。「申請人の方ですか?」と声をかけると、男は一言「後は任せます」とだけ言った。
封筒には多めの報酬が入っていた。現金で。やけに旧札が混じっていたのが気にかかった。
身元を明かさぬ中年男の登場
名刺もなく、印鑑もなく、依頼書もなし。それでも金だけはある。司法書士を長くやっていると、たまにこういう「気配の濃い」依頼が舞い込んでくる。しかも妙に計算された形で。
それは、ルパン三世の登場のような、どこか芝居がかった足跡の残し方だった。
現地調査と崩れかけた古民家
俺は車で指定の土地へ向かった。雨の山道を登った先に、その家はあった。瓦は半分落ち、玄関の引き戸も外れていた。なるほど、火事の跡らしい。
焼け残った柱に、番号札が貼られていた。警察が現場検証をした痕跡。その場で撮影を済ませ、足早に戻ると、山の下で一台の軽トラックがこちらを見上げていた。
サトウさんの的確すぎる観察力
事務所に戻ると、サトウさんが資料をまとめていた。「これ、相続放棄がされています。しかも火災当日に」彼女の指先が示したのは法務局での受付記録。
「つまり、申請書を出してきた人物は、すでに放棄した相続人か、それに化けた第三者ということです」うん、やっぱり只者じゃない。
登記簿と火災記録の食い違い
火災保険の請求記録を調べると、申請されたのは火災翌日だった。だが、所有者は死亡しているはず。誰が請求したのか。火災当日の目撃情報を集めると、なんとその日に“所有者らしき人物”が逃げる姿が目撃されていた。
つまり、死んでいない。死んだことにしているだけだ。
シンドウの古い記憶が呼び覚まされる
その家の住所を見て、ふと記憶の奥が疼いた。中学の同級生で、突然転校していったヤマグチという男の家が、たしかこのあたりだった。確かに火遊びが好きな奴だった。
まさか、、、そんなことはないと思いつつも、気づけば登記簿の旧住所欄を調べていた。
「死んだはずの男」と夜の面談
数日後、またしてもあの男が現れた。「おたく、余計な調査をしてますね」低い声に静かな威圧感がある。だがこちらも国家資格持ち。負けてられない。
「登記は真実を映す鏡だって、先輩に教わりました。あなたの姿は、鏡に映りませんよ」そう告げると、男は小さく笑い、「ルパンじゃあるまいし」と呟いた。
やれやれ、、、話がややこしくなってきた
もはや登記の話ではなくなっている気もする。死者を装って保険金を受け取り、家を第三者に譲渡して逃げ切る計画。その舞台に選ばれたのが、俺の事務所だったというわけか。
やれやれ、、、どうしてこう、俺のところにばかり面倒が集まるんだ。
元所有者の行方と戸籍の盲点
結局、警察に通報する前に、登記を止める手続きを取り、法務局に事情説明を行った。申請は却下され、依頼人はそれ以来姿を見せていない。
戸籍の盲点を突いた彼の行動は、紙一重で詐欺未遂だった。だが、証拠が決定的ではなく、警察は消極的だった。
裏取りの結果が導くもう一人の登場人物
実はサトウさんが独自に調査していた。火災現場近くの民宿に、当日一泊した不審な男がいたという。防犯カメラに写ったその姿は、封筒を持ってきた男と酷似していた。
「この人、死亡届を出した町役場の職員の弟です」サトウさんがそう言ったとき、俺は一瞬漫画みたいに口を開けて固まった。
犯行の動機と証拠なき登記
借金返済と保険金目当ての偽装工作。だが、死体がない以上、事件にならない。登記を利用した形跡を残すことで、不正の痕跡を消すつもりだったのだろう。
司法書士を巻き込むことで、証明力を持たせようとした。いや、巻き込むふりをして、その裏で“保険金の請求”が本丸だったのかもしれない。
司法書士として踏み込むべきか否か
一歩間違えば、こちらも詐欺の共犯にされかねない案件だった。ギリギリのところで止められたのは、サトウさんの冷静さのおかげだ。俺一人なら、間違いなく登記申請を受けていただろう。
やっぱり彼女がいてくれて、助かった。
決定的な一筆と火災前の登記記録
最後の決め手となったのは、火災前の建物図面と現況写真の差異だった。柱の配置が明らかに異なり、それが第三者の手による建て替えであることを示していた。
「つまり、この家は“焼けてなかった”んですね」サトウさんが微笑んだ。偽装火災だった。それだけで、全てのピースがはまった。
サトウさんの推理が決着を導く
彼女の推理と証拠提出で、警察もようやく動き出した。元所有者と男は、指名手配の対象となった。登記簿に眠っていた“者”は、ようやく現実世界で裁きを受けることになった。
俺は、、、俺はただ、封筒を開けただけなのに。
事務所に戻った平凡な一日
数日後、何事もなかったように登記相談の電話が鳴った。カーテン越しの陽射しがまぶしい。サトウさんはいつも通り、淡々と仕事をこなしている。
「今度こそ、普通の登記、来るといいですね」彼女がぼそっと言った。「ほんとそれだよ、、、」俺は心の底からうなずいた。
「普通に申請してくれればいいのに」
もう怪盗も探偵もお断りだ。俺はただの司法書士。普通に、静かに、確実に仕事をしたいだけなんだ。
登記簿に“眠る者”が、また目を覚まさないことを祈りながら、俺は申請書の印字を始めた。