誰かにわかってほしいと思う朝がある
「今日は少し楽かもしれない」と思って始まる朝でも、9時を過ぎるころにはその淡い期待が打ち砕かれる。登記の準備、依頼者からの確認、そして区役所や法務局とのやりとり。誰もが淡々と業務をこなしているように見えるが、実はその裏で神経をすり減らしながら働いている。そんな毎日の中、「誰かにわかってほしい」と思ってしまう自分が嫌になることがある。弱音なんて吐いていられない。それでも、朝のコーヒーが冷めきったころ、ふと天井を見上げて思う。「これ、誰かに伝わったら、ちょっとは報われるんだろうな」と。
電話一本が怖くなる日もある
電話が鳴る音が、ある日突然、爆弾のカウントダウンのように聞こえることがある。自分が悪いわけじゃないのに、相手のトラブルの火種がこっちに投げられる。説明しても納得されない、感情的に怒鳴られる、事務員が対応してくれた後も、結局は自分が矢面に立つことになる。電話が怖い。そう思ってしまう日は、心のどこかで「もう限界かもしれない」と感じている。けれど、電話に出ないと仕事にならない。それが司法書士の現実だ。
それでも出ないと始まらない仕事
司法書士の仕事は、黙っていても向こうから依頼が舞い込むようなものではない。むしろ、誰よりも声を上げ、対応を急ぎ、相手の都合に合わせて動かなければならない職業だ。電話を避けることはできないし、メールを見ないフリもできない。連絡がすべての始まりであり、トラブルもまた連絡から始まる。それでも、こちらが最初の一歩を踏み出さないと、何も進まない。この矛盾に、毎日耐えている。
受話器の向こうにある無理解
「あれくらいやってくれて当然でしょ?」そんな空気を、受話器の向こうから感じることがある。丁寧に説明しても、相手が納得しないと「不親切」と言われる。こちらの苦労や事情は一切伝わらない。ただ、「間違えずに、早く、安く」という無言の圧力だけがのしかかる。理解されようとすること自体が、そもそも甘えなのか。そんな考えが頭をよぎるたび、またひとつ、心がすり減っていくのを感じる。
楽そうだねと言われた時のもやもや
親戚の集まりや、地元の飲み会なんかでよく言われる。「書類作って判子押すだけでしょ? 楽そうでいいね」──その一言が、どれだけの努力を踏みにじっているかなんて、言った本人は気づいていない。書類の一文字一文字に込めた注意力、万が一にも間違えられない緊張感、そして何より、責任。見えないから、軽く見られる。その「見えなさ」と毎日戦っている。
書類作ってるだけって思われがち
パソコンに向かって黙々とキーボードを叩いている姿だけ見れば、そりゃ「楽そう」に見えるのかもしれない。でも実際は、間違えれば数百万単位の損害が出るような、超がつくほどの神経戦だ。登記内容が違えば、依頼者の人生まで狂わせることもある。そのプレッシャーを誰にも話せず、独りで抱え込む夜。書類作ってるだけ?──冗談じゃない。
実は背負ってる責任がシャレにならない
不動産登記ひとつにしても、そこには依頼者の家族の未来が詰まっている。遺産分割なら、兄弟同士の感情のぶつかり合いの間に立つことになる。誰かが間違えたら、取り返しのつかないことになる。その“誰か”には、もちろん自分も含まれている。そう考えると、日々の業務がいかに重いかがわかるだろう。だがその重さは、表には出ない。
ミスは即トラブル わかってくれとは言えない
ミスをした時のダメージは計り知れない。依頼者にはもちろん謝る。でも、その後ろには法務局、金融機関、役所、何重にも絡む関係者がいて、全方位に頭を下げなければならない。事務所の信頼も一気に揺らぐ。「たかが書類」で済む話ではないのだ。わかってほしい?いや、そんなこと言える空気じゃない。だったら、せめて黙って頷いてくれればいいのに。
一人で抱えきれない感情の置き場
忙しさにかまけて、感情を放置していると、ふとした瞬間に爆発することがある。昼休みに食べるコンビニ弁当が味しない。誰とも話したくない。でも誰かに話を聞いてほしい。その矛盾の狭間で、今日も一人、パソコンに向かっている。
相談できる相手がいないという現実
独立していると、相談相手がいない。特に田舎だと、同業者にすら本音を言いにくい空気がある。ライバルでもあり、仲間でもある微妙な関係性。だから、つい一人で抱え込み、家に帰ってからも気持ちの整理がつかないまま眠る。そんな日が、週の半分を占めている。
しっかりしてるねは孤独の始まり
「しっかりしてるね」と言われるたび、どこか冷えた気持ちになる。たしかにそう見えるのかもしれない。でも、それはただ、弱さを見せたら終わりだと思っているからだ。しっかりしているように見えるだけで、実際は不安でいっぱい。けれど、それを見せる相手がいないというだけの話。
黙っていても伝わらないことばかり
「言わなくてもわかってくれる」なんてことは、ほとんどない。期待すれば裏切られるし、黙っていればますます孤独になる。だからこそ、こうして文章にして吐き出すしかない。誰かに届くかはわからない。でも、伝えなければ一生誰にも気づかれないまま、終わってしまう。
それでも続ける理由は何なのか
正直に言えば、何度も辞めようと思った。でも、やっぱりやめられなかった。理由はシンプルだ。「ありがとう」の一言が、全部を帳消しにしてくれるから。わかってもらえなくても、役に立ったと感じた瞬間が、何よりも大きな報酬になる。
誰かのためにやっている感覚
自分の仕事が、誰かの生活や人生を支えている──そう思える瞬間がある。それは、たった数秒の「感謝」の言葉だったり、さりげない笑顔だったりする。その一瞬のために、どれだけの苦労があっても、結局また仕事に戻っていく自分がいる。
役に立てた瞬間だけが救いになる
「先生がいて助かりました」──そう言われた時、ようやく少しだけ、報われた気になる。理解なんてされなくてもいい。ただ、「あなたでよかった」と思われたその一言に救われて、また一歩を踏み出せる。それだけで、今日もなんとか持ちこたえている。
理解ではなく共鳴を求めているのかもしれない
本当は、理解されたいんじゃない。共鳴してくれる誰かがいれば、それでいいのかもしれない。「自分も同じだよ」「わかる気がするよ」そんな一言で、どれだけ救われるか。この文章が、そんな共鳴のきっかけになれば、それだけで今日は少しだけ救われる気がする。