信頼してるんで任せますが一番怖いと感じた日

信頼してるんで任せますが一番怖いと感じた日

信頼という名の丸投げ

「信頼してるんで任せます」——この一言ほどプレッシャーを感じる言葉はありません。ありがたい言葉のはずなのに、どうしてこんなにも重くのしかかるのか。たぶん、地方の小さな司法書士事務所で、事務員一人と二人三脚でやっている僕のような立場にとっては、「信頼」がイコール「責任の全部を引き受けてね」という意味に聞こえてしまうのです。過去に何度もこの言葉に泣かされてきた経験があるからこそ、今でもこのフレーズを聞くと少し身構えてしまいます。

その言葉が放たれた瞬間の空気

あの日の相談者は、にこやかで「細かいことはよくわからないんで、信頼してるんで任せますよ」と軽やかに言いました。確かに、信頼の言葉をいただけるのはうれしい。しかし、その瞬間、僕の心の中には冷たい汗が流れました。「あ、全部こっちの責任になるやつだ」と。そこから先は、どんな書類を作っても、本当にこれでいいのか、抜けがないか、相手の「期待」にどこまで応えられるか、不安ばかりが押し寄せてきたのを覚えています。

任された側の責任の重さ

「任せたからミスしても仕方ないよ」なんて言ってくれる人はほとんどいません。信頼されたからこそ、完璧にやって当たり前。そう思われているのがわかるからこそ、胃が痛くなるんです。例えば、相続登記で家族間に微妙な感情のズレがあるときなんかは特にそう。「あとは先生に任せます」と言われた瞬間、感情も含めた全部の火種を自分が抱える羽目になる。そんな状況、正直なところ、何度逃げ出したくなったことか。

判断ミスのすべてが自分のせいになる現実

依頼人が「細かいことは気にしません」と言っていたのに、後になって「あれはちゃんと確認してもらわないと困る」と怒られたことがありました。もちろん説明はしていたし、承諾も得ていた。でも証拠は残ってない。となると、僕の責任にされてしまう。こうしたケースは一度や二度じゃありません。どこまで丁寧に説明しても、任せられた側の判断が「間違っていた」ことにされる。信頼という言葉の裏に潜む怖さを、身にしみて感じる瞬間です。

経験があっても怖さは消えない

もう20年以上この業界でやってきたし、経験も知識もそれなりにあるつもりです。それでも「任せます」という言葉は怖い。なぜなら、案件は一つひとつ違うし、同じ相続でも家族の空気感や背景が全然違うから。何度やっても、どこかに「これは落とし穴じゃないか」と思ってしまう。経験を重ねるほど、怖さがリアルになってくるのが不思議です。むしろ若い頃の方が、勢いで突っ込めた気がします。

お客さんとの温度差が生むすれ違い

信頼して任せてくれるのはありがたいこと。でも、お客さんの中には「自分は手間をかけたくない」だけで言ってる人もいる。こちらはリスクを背負って慎重に進めているのに、その温度差がすれ違いを生んでしまうことが少なくありません。どちらが悪いという話ではないのですが、そのすれ違いがトラブルの種になる。日々、気を遣いながらも、このギャップに頭を抱えることもあります。

プロとして信じてもらうありがたさと重さ

信頼されること自体が悪いことではありません。むしろ、それがあるからこそ仕事が成り立っている。でも、ありがたさと同時に、ひとりでやっているからこそそのプレッシャーも全部自分に返ってくる。ちょっとした判断ミスが信用問題につながる世界。信頼って、受け取るには相当の覚悟がいるんです。時々、プロであることの代償ってなんなんだろうって、ふと考えてしまうこともあります。

お任せされた結果に不満を持たれたとき

いちばん堪えるのは、結果を出したあとに「思ってたのと違った」と言われることです。口では「お任せで」と言っていたのに、頭の中では理想の形があったらしい。でもそれは事前に聞いていない。聞かされてない。そういうすれ違いのクレームって、一番きつい。自分を責めるし、相手の気持ちにも罪悪感が残る。結局、お互いに苦しいんですよね。

言葉の裏にある無自覚な無責任さ

「信頼してるんで任せます」は、便利な言葉だと思います。相手の責任を軽くするし、自分は考えなくてもよくなる。だけど、その裏側には無意識の無責任さがある。言われた方は命綱を持たずに崖を下るような感覚で仕事をする羽目になります。それって、お互いにとって本当に信頼なのか?と疑問に思うことがあります。

まるで爆弾を預けられたような感覚

その言葉を聞くと、「はい、爆弾どうぞ。あとで爆発したらあなたのせいです」って言われてるような感覚になります。見えないリスクを背負って、何も知らないふりをされたときの虚しさ。しかも、責任を問われるのは必ずこちら側。だからこそ、どれだけ用心しても、どこかに爆弾が仕込まれているんじゃないかという気持ちが消えない。こういう仕事をしてると、疑り深くなるのも当然なんですよ。

信頼は便利な逃げ道になる

依頼者の中には、最初から「うまくいかなかったときの保険」として“任せます”を使ってる人もいます。怖いのは、そのことに本人も気づいていないケースがあること。責任を負いたくない、考えたくない、でも結果にはこだわる。そんな気持ちの矛盾を、信頼という美しい言葉で包んで投げてくる。その場で「お任せいただくのはありがたいですが…」と説明するのも難しい。難儀なもんです。

自分が失敗したわけではないのに責任を問われる

昔、ある不動産の名義変更で依頼者が希望する内容と法的に可能な内容が食い違っていたことがありました。きちんと説明して進めたつもりだったのに、後から「そんなつもりじゃなかった」と怒られた。結局、「信頼して任せたのにどうしてくれるんだ」という話になる。自分のミスじゃなくても、任せられた側は常に“加害者”のような立場に置かれる。言葉に責任を感じるタイプの人間には、堪えます。

何かあったときの逃げ場のなさ

僕のように一人で事務所を回していると、相談できる上司もいないし、責任を分担できるチームもない。すべての判断が自分一人にかかってくる。「任せた」と言われたとき、その判断が間違っていたら逃げ道はありません。ミスじゃなかったとしても、結果が気に入られなければアウト。心の逃げ場すらない状態で、毎日仕事をしている。そりゃ、白髪も増えるわけですよ。

事務員とのやりとりに救われた日もある

唯一の救いは、一緒に働いてくれている事務員さんの存在です。彼女がいなければ、もう少し早く折れていたと思います。冷静に意見をくれたり、「それ、危なくないですか」と言ってくれたり、僕が見逃していたことを拾ってくれる。その一言に、どれだけ救われてきたか。

信頼できる人が隣にいるありがたさ

仕事は孤独だけど、誰かが自分の判断に疑問を投げかけてくれるというのは、とても心強い。間違いに気づかせてくれるし、暴走も防げる。信頼とは、丸投げではなく、意見を交わしながら作っていくものなんだと実感する瞬間でもあります。

それちょっとおかしくないですかの一言に救われた

あるとき、僕が書類作成の進行を急ぎすぎていたときに、事務員が「先生、それちょっとおかしくないですか?」とぽつりと言った。その一言で立ち止まり、確認し直したら、まさかのミスを発見。危機一髪で回避できた。誰かが冷静にブレーキをかけてくれるだけで、人は助かるんですよ。

今後の自分にできる備えとは

これからも「任せます」はきっとなくならない。そのたびにビクビクするわけにはいかないので、自分なりの“受け止め方”を考えるようになりました。全部を抱え込まない。できることとできないことを明確に伝える。そういう備えが、自分を守る術なんだと思います。

任せますにどう向き合うかのマイルール

僕は最近、「任せます」と言われたら必ず、「いくつか確認させてくださいね」と返すようにしています。相手の理想や希望を引き出しておかないと、あとでトラブルになりますから。そして、それをちゃんと記録しておく。保険じゃないけど、お互いのためです。

期待値のすり合わせが全てのカギ

信頼して任せてもらうのはありがたい。でも、その信頼が成立するには、相手と自分の期待値が揃っている必要がある。そのすり合わせを怠ると、結局は信頼の崩壊につながる。丁寧すぎるくらいがちょうどいいと、最近は思うようになりました。

自分の中で線を引く勇気

最後に、自分自身の中でも「ここまではできる」「ここから先は無理」という線引きをちゃんとするようにしています。全部を引き受ける必要はない。そう思えるようになって、少しだけ気持ちが楽になりました。信頼されることはうれしい。でも、自分の心と体が壊れてしまったら、元も子もないんです。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。