老眼より独身の老後が怖いなんて言えないけど言いたい

老眼より独身の老後が怖いなんて言えないけど言いたい

老眼よりも気になる独身の未来

最近、契約書の文字が見えづらくなってきた。老眼かもしれない。でも、それより気になるのが「このままひとりで老いていくのか」という漠然とした不安だ。45歳、地方で司法書士事務所を営んでいて、仕事にはある程度慣れてきたし、責任感も持っている。でも、それと引き換えにプライベートが空っぽのままここまで来てしまった。老眼は眼鏡でカバーできるけど、独身の老後はレンズでは矯正できない。

ふとした瞬間に感じる孤独の正体

夕方、仕事帰りに立ち寄るコンビニ。レジで「温めますか?」と聞かれ、「お願いします」と答える。たったそれだけの会話が、今日初めての人とのやりとりだったと気づくと、なんだか胸がざわつく。誰かと暮らしていれば、どうでもいい話をしながらご飯を食べたり、テレビを見ながらツッコミを入れたりしていたんだろうな、と想像しては苦笑いする。笑ってはみるものの、その笑いはどこか空虚だ。

仕事帰りのコンビニでよぎる違和感

「またレンジ弁当か…」とつぶやいた時、自分の声が予想以上に大きくて驚いた。誰もいない部屋に向けて、つい話してしまった自分が少し怖かった。昔は自炊していたのに、忙しさにかまけてコンビニ食が日常になった。レンジがチンと鳴る音が、まるで「今日もひとりだったね」と告げてくるようで、耳が痛い。人は誰かに必要とされてこそ、ちゃんと“人間”になれるんじゃないかと思う。

温かい食事より温かい会話が恋しい夜

食べ物の温度は簡単に上げられる。けれど、心の温度を保つのは難しい。とくに仕事で失敗した日や、依頼人とのやりとりで心がすり減った日に、それは顕著になる。「今日もよく頑張ったね」そんな一言を誰かに言ってもらえるだけで、たぶん涙が出るくらい救われる気がする。でも、いまはレンジの音だけが鳴る部屋で、無言でご飯を流し込む日々。それが、日常だ。

元野球部でも乗り切れない精神的バッテリー切れ

高校時代、野球部で鍛えた体力と根性には、それなりに自信があった。グラウンドで泥だらけになりながら、毎日バットを振っていたあの頃。今でもその経験が仕事に活きている部分はある。でも、精神のスタミナは別物だ。肉体の疲れは風呂や睡眠で回復するけれど、孤独や不安は、どんなに寝ても癒えない。心のバッテリーが切れかけているのを、感じずにはいられない日が増えてきた。

ひとり反省会が日常になっている

夜、風呂上がりに缶チューハイ片手にテレビをつける。お笑い番組を見ながらも、頭の中では「今日の対応、あれでよかったのか」「あの書類、ミスしてないか」と自問自答。気づけば、まるで試合のビデオ判定のように、仕事の一日を振り返っている。誰かに相談できれば違った答えも見つかるかもしれない。でも、いまはただ、自分で自分を裁いて、自分で勝手に疲れていくばかりだ。

仲間の声が懐かしく響く瞬間

甲子園を目指していた仲間たちの笑い声が、ふとした瞬間に頭の中で再生される。あの頃の“おい、今のスイングなんだよ!”という叱責さえ、今では温かく感じる。今の自分には、そんな風に笑いながらツッコんでくれる仲間がいない。たまに連絡が来るのは年賀状か、誰かの結婚報告くらい。グラウンドには戻れないけど、あの頃のように誰かと本音でぶつかれる関係を、もう一度持ちたいと切に願っている。

司法書士という仕事と独身の交差点

司法書士という仕事は、信頼と責任が求められる仕事だ。人の人生の節目に関わることも多く、やりがいはある。でも同時に、それが“孤独”を強めている気もする。依頼人には寄り添えても、自分自身の心の居場所はどこにもない。そんな矛盾を抱えたまま、今日もまた一日が過ぎていく。

お客様には寄り添えるけど自分の心は置き去り

登記の相談に来るお客様には、できる限り丁寧に話を聞く。法的な不安を抱えている人たちにとって、私の存在が少しでも安心につながればと思っている。でも、自分の不安は誰に聞いてもらえばいいのだろう。笑顔の裏で、私自身はどんどん疲弊しているのに、相談する相手もいなければ、自分の感情に蓋をしてやり過ごすしかない。それが「司法書士としてのプロ意識」と言われたら、それまでだけど。

「ありがとう」が嬉しい反面にある虚しさ

依頼人からの「助かりました」「ありがとう」の言葉は本当に嬉しい。でも、その帰り道、どこかでぽっかりと穴があいているような感覚に襲われる。誰かの役に立てているのに、自分の心は空っぽのまま。「ありがとう」が心に響くたびに、自分の孤独がくっきりと浮かび上がる。こんなはずじゃなかった、という思いが、じわじわと湧いてくる。

事務所にこもりがちな日々が招く不安

毎日、同じ机に向かい、同じ資料に目を通す。外出といえば、役所か法務局か銀行ばかり。仕事はこなしているのに、生活している実感がどんどん薄れていく。気がつけば、休日も家でぼーっとして終わっている。誰かと出かけることもなく、誰かと連絡を取り合うこともない。社会とはつながっているはずなのに、世界から取り残されているような感覚になる。

目の疲れよりも心の疲れが重たい

目薬が手放せないほど目は疲れているけれど、それよりも重たいのは心の疲労感。ふとした瞬間に「もう全部どうでもいいや」と思ってしまう自分が怖い。仕事は手を抜かない。でも、気力がどんどんすり減っていくのがわかる。事務所の照明の下で黙々と作業していると、まるで時間だけが進んで、自分だけが置き去りになっているような気分になる。

それでも前に進むために

不安も孤独も、仕事の重圧も、すべてを抱えながら、それでも私は毎日事務所のドアを開ける。誰かのために動いているうちに、自分の心も少しだけ救われる瞬間がある。そしてその積み重ねが、きっとどこかにつながると信じたい。独身でも、老後が怖くても、ひとりじゃないと思える日が、きっと来ると。

愚痴れる相手がいるだけで救われる

先日、たまたま地元の先輩司法書士と飲む機会があった。「お互い、疲れるよなあ」と笑いながら愚痴をこぼし合ったら、不思議と心が軽くなった。愚痴って悪いことのように思われがちだけど、あれは心のデトックスだ。溜め込むより、誰かに「しんどいなあ」と漏らせるだけで、ずいぶん違う。独りで抱え込むのが当たり前になっていた自分にとって、その時間は何より貴重だった。

優しさは強さじゃなくても武器になる

若い頃は、「強くなきゃ司法書士なんてやってられない」と思っていた。でも今は、優しさだって立派な武器になると感じている。誰かに優しくできる自分を認めること。それが、自分を救う第一歩になるのかもしれない。無理して強がらず、「今日ちょっとしんどい」と言える勇気。それが、独り身でも前を向くための力になる。

共感の輪が未来の安心につながる

このコラムを通じて、「わかるよ、その気持ち」と思ってくれる人が一人でもいれば、私は救われる。司法書士として、男として、独身者として、何かを抱えている人がいるなら、一緒に少しずつ前に進めたらいい。愚痴でもいい、弱音でもいい。言葉を交わすことが、安心につながるなら、私はこれからも書き続けたいと思う。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。