予定のないページに責められている気がする
毎年、年始にちょっといい手帳を買う。ページをめくりながら「今年こそは予定でいっぱいにしよう」と思う。だけど、年が明けて数ヶ月が過ぎると、空白のページばかりが目につき始める。その真っ白なページに、自分の価値まで吸い取られていくような気がするのだ。手帳の空白が、自分の存在の薄さを証明しているようで、めくるたびに胸がざわつく。司法書士という仕事をしていると、やることは山ほどあるはずなのに、なぜか手帳はスカスカ。そんな現実に、情けなさすら感じる。
手帳に書くことがないと不安になる
若い頃、事務所勤めしていたときの先輩が「手帳は人生のログだ」と言っていたのを思い出す。あの頃は、外回りや打ち合わせ、研修と予定が詰まっていて、それを書き込むことで自分の存在意義を感じていた。でも独立して、地方の事務所で一人と一人の事務員だけで回す今、予定を書き込むことそのものが少なくなってきた。仕事はしているのに、それが手帳に反映されない。すると、なんだかちゃんと生きていないような、仕事してる気がしないような、妙な空虚さに包まれる。
スカスカのページに何か書かなきゃという強迫観念
空白が続くと「何か埋めなきゃ」と焦る。だから、やる必要のない細かいタスクまで書き込んで、あたかも予定が詰まっているように見せることもある。郵便局へ行く、銀行へ寄る、コンビニでコピーを取る――そんな“予定”を水増しして書いたところで、むなしさは消えない。手帳は予定を管理する道具だったはずが、自分を責める鏡のようになっている。予定を詰めていないと不安になる自分がいるのが、何よりつらい。
空欄は暇ではなく余裕なのかもしれない
ある日、手帳を見ていた事務員さんが「先生、手帳真っ白でも忙しそうですね」と笑っていた。なんだか救われた気がした。空白=暇、ではなく、空白=余裕、なのかもしれない。自分にとっては“空白”でも、相手にとっては“頼れる存在”に見えているのかもしれない。予定が書いてあるかどうかより、どう生きているかのほうがよっぽど大事なんだと思う。そう思えるようになるまで、かなり時間がかかった。
他人の手帳が充実して見える理由
SNSなどでたまに流れてくる「バレットジャーナル」や「おしゃれ手帳」の投稿。あれを見てしまうと、自分のスカスカ手帳がますます惨めに思えてくる。でもよく考えれば、他人が見せている手帳って、たいていは「見せる用」に整えられているものだ。あれは記録ではなく演出、まるで舞台のセットのようなものなのだ。そうわかっていても、見れば比べてしまう。これも人間の性なのだろう。
予定が多い人ほど偉い気がしてしまう罠
予定で埋まっている手帳を見ると「この人はきっとすごく働いてる」と思ってしまう。でも実際に話してみると、やたらと無駄な会議が多かったり、移動ばかりで疲弊していたりすることもある。予定の量が多いこと=充実している、ではないはずなのに、どこかでそう思い込んでしまっている自分がいる。昭和の野球部出身だからだろうか、忙しくしていないと落ち着かない性分なのかもしれない。
SNSで見る手帳は演出かもしれない
昔、事務員さんが「インスタの手帳って、ほんとに全部本当なんですかね?」と聞いてきたことがあった。その時は「そりゃ本当なんじゃない?」と返したけど、今思えば、あれは虚像だったのかもしれない。見せたい自分を記録しているに過ぎない手帳を、私たちは羨んでいるのかもしれない。空白を恐れて埋めようとするより、空白を受け入れることの方が、よっぽど誠実な生き方かもしれない。
埋まらない現実に落ち込む日
今日は一日中、予定がなかった。細々とした仕事はある。でもそれは「予定」と呼ぶにはあまりに地味で、書くのもためらわれるような作業ばかり。そんな日は「自分ってなんなんだろう」と思ってしまうこともある。けれど、そんな日々の中にも、自分なりの意味を見出せたらいいなと願っている。
暇だからではなく心が動かないから
予定が入らないとき、「暇なんですね」と言われることがある。けれど実際は、暇というより“心が動かない”状態なのだ。体は動いていても、内側からの熱がない。司法書士という仕事は、ルーティンと実務の積み重ねで成り立っているから、感情を動かすような出来事は多くない。でもだからこそ、自分の心がどこに向かっているのか、日々問いかけ続けなければ、いつの間にか空っぽになってしまう。
やりたいことを考える余裕がなかった
独立したての頃は、「これからは自由に時間を使える」と思っていた。でも実際は、自由どころか、毎日が雑務と帳尻合わせで消えていく。気がつけば、やりたいことを考える余裕すら失っていた。「やるべきこと」に埋もれて、「やりたいこと」が見えなくなっていたのだ。手帳の空白は、そういう自分を映し出していたのかもしれない。
感情の空白と予定の空白は違うもの
手帳が空白でも、心が満ちている日もある。逆に、予定が埋まっていても、心がスカスカな日もある。感情の空白と、スケジュールの空白は別物だ。手帳を見て焦るのは、単に予定がないことではなく、「このままでいいのか?」という漠然とした不安があるからだろう。その不安を直視するのは怖いけど、避けている限り、いつまでも白いページに責められ続ける気がする。
忙しさに追われているはずなのに
実際、仕事量だけでいえば毎日があっという間に終わるほど忙しい。でも、それが「予定」として見える形になっていないと、自分でも何をしていたのかよくわからなくなる。特に、電話対応や相談の調整など、突発的に発生する業務は、手帳に書きようがない。忙しさに飲み込まれて、自分が何をしたかも記録できないというのは、なんとも切ない。
ただの事務作業に追われる毎日
今日は相続関係の書類のチェックが3件、登記の申請補正対応が2件、そして市役所と法務局を2往復。何もしてないわけじゃない。むしろフル稼働だ。でも、そのどれもが“予定”ではない。やらなければいけないからやっただけ。予定というより「対応」だ。そんな毎日に、充実感はあるようで、どこか空っぽな気もしてしまう。
書くほどのことじゃないことばかりやってる
「これってわざわざ手帳に書くことかな?」と迷ううちに、どんどん空白が増えていく。やってることが地味すぎて、記録する気も起きない。そうして手帳は真っ白になり、時間だけが過ぎていく。だけど、地味な仕事を丁寧に積み上げていること自体が、立派な実績であり、自分を支える基盤になっているのだと信じたい。書かれていなくても、自分の時間は確かに流れている。
書かない日を認めてやる勇気
手帳に書いていない日があっても、自分を責めない。それができるようになったのは、つい最近のことだ。書いていない=怠けている、ではない。書かないことを選んだ日も、大事な一日だ。司法書士の仕事は、見えにくい努力の連続。だからこそ、手帳の空白を責めるのではなく、受け入れる勇気を持ちたい。
空白があるからこそ見えるもの
真っ白な手帳を見ながら「この空白に何を描こうか」と思えるようになった。かつては埋めることが正義だった。でも今は、空白もまた人生の一部として愛おしい。空白があるからこそ、予定のある日が輝いて見える。感情にも、人生にも、余白は必要だ。その余白を、じっくり味わっていけるようになりたい。
埋めることよりも振り返ることの価値
最近は、書けなかった日を見返して、「この日は何があったんだろう」と振り返るようにしている。忘れていた小さな感情や出来事が、ふと思い出されることもある。手帳は予定を詰め込むものではなく、自分と対話するための道具なのかもしれない。そう思うと、空白のページもまた、優しい時間に見えてくる。
あえて書かない日を作るという選択
忙しくなると、あえて“書かない日”を作るようになった。予定も感情も全部手放して、ただ淡々と過ごす一日。そんな日があるからこそ、また次の日の仕事に向かう力が湧いてくる。手帳の空白は、サボりではなく、必要な休息なのだ。そう割り切れるようになったのは、長く働いてきたからこその変化かもしれない。