誰にも見えないけど命を削っている日々
司法書士の仕事って、外から見れば「机に座って書類をいじってるだけ」に見えるかもしれない。でもその一件一件の裏側で、こっちは命を削るように神経を使ってる。登記のミスは取り返しがつかないし、相手の人生に関わることも多い。プレッシャーに押しつぶされそうになりながら、どうにかこうにか今日も机に向かっている。でも、その重さを誰が知ってくれるんだろう。たぶん誰にも気づかれてない。
「一件一件が勝負」なんて言うけれど
よく司法書士の先輩や業界の講演で「一件一件が勝負だ」と聞くけど、実際は勝負というより命がけの綱渡りだ。一つの登記に対して、事前確認から資料集め、関係者との調整、提出書類の細かな整合性まで、神経を研ぎ澄ませる。勝負という言葉の裏には、毎回「負けたら終わりかもしれない」くらいの気持ちがある。実際、些細な確認ミスで依頼人から怒鳴られた日なんて、帰り道に何度も心が折れそうになった。
完了の電話一本で全て報われるわけじゃない
登記が無事に終わって、依頼人に「完了しました」と電話を入れる。その一言に達するまで、こちらは何日も頭を抱え、書類の山に囲まれ、神経をすり減らしてきた。でも相手は「はい、わかりました」で終わる。それが悪いわけじゃない。でも、自分が命がけでやってきたものが、ほんの数秒で受け流されるのを感じると、何とも言えない虚しさが残る。感謝なんて期待してないけど、心のどこかで誰かに気づいてほしいと思ってる。
喜びよりも疲労が勝つときのほうが多い
終わった後の達成感より、正直言って「やっと終わった…」という疲れの方が強い。登記完了の処理を終えて椅子に沈むと、どっと疲れが押し寄せる。嬉しい気持ちがないわけじゃないけど、それを味わう余裕もなく、次の案件が目の前にやってくる。こんな毎日が続けば、心も体もすり減るのは当然で。ふと鏡を見れば、目の下にクマ。昔はもっと元気だった気がする。野球部でグラウンドを走っていたあの頃の自分が、今の自分を見たらどう思うんだろう。
ミスが許されない世界の重さ
司法書士の仕事には「失敗してもまあ大丈夫」という甘さはない。どんなに気をつけていても、ミスはゼロにはできない。それでも、ゼロにしなきゃいけない世界。だから、毎日が張り詰めている。緊張を緩める暇がないまま、次々と案件が押し寄せてくる。これが1年、5年、10年と続いていくと、何のために頑張ってるのかわからなくなるときもある。
たった一つの登記ミスが呼ぶ地獄
数年前、一つの物件登記で地番を一桁間違えたことがある。すぐに気づいて訂正手続きに入ったけど、依頼人は激怒。事情を説明しても、「プロでしょ?ミスするなんて信じられない」と言われた。それから何週間も眠れなかった。仕事中も食事中も、その言葉が頭を離れなかった。何気ない一つの数字が、信頼も生活も脅かす。地獄は本当に、紙一枚の向こうにあるんだと実感した。
眠れない夜と消えない後悔
あの夜、ふとしたきっかけで過去の登記書類を見直していたら、判を押し間違えていたことに気づいた。すでに提出済み。その瞬間、頭が真っ白になった。汗が止まらなくて、胸がざわざわして、何度も机に戻っては確認して…結局、夜が明けるまで何も手につかなかった。ミス自体は軽微で、後から訂正できたけど、「あのときの感情」は今でも忘れられない。ミスを防ぐために、今はチェックリストも倍に増やした。
「完璧にやって当たり前」の呪い
依頼人にとっては、こっちがどんな思いで仕事しているかなんて関係ない。結果だけがすべて。だから、完璧にやって当たり前。「ありがとう」より先に「ミスないですよね?」が飛んでくる。人に信用される仕事である一方で、「人間らしさ」を失っていくような気がする。自分の中に「絶対に間違えてはいけない」という呪いのような思考が染みついて、心に余裕が持てなくなっている気がしてならない。
理解されない働き方と孤独
久しぶりに高校時代の友人と飲みに行って、「今も司法書士やってるんだ?」って聞かれたあとに続いたのが「楽そうでいいね」だった。思わず笑ってごまかしたけど、内心はグサッときた。楽どころか、寝ても覚めても仕事に追われてる。特に独立してからは、すべてが自己責任。失敗しても、助けてくれる上司なんていない。地方という土地柄もあって、相談できる相手も限られている。
友達にも話せないこの仕事の重さ
たとえ旧友でも、仕事の具体的な悩みを話したところで、理解されることはほとんどない。「責任ある立場って大変だね」と言われるくらい。だけど、その「責任」って言葉の重みを、本当の意味で分かってくれる人は少ない。ちょっとした言葉で気が楽になる日もあれば、逆に何気ない一言で何日も落ち込む日もある。結局、誰にも話せず自分の中に溜め込むしかなくて、ますます孤独になる。
「楽そうだね」と言われたくない
書類仕事って、どうしても軽く見られがち。「椅子に座ってれば給料もらえる仕事でしょ?」なんて言われたこともある。でも、実際にはミス一つで全てが終わる緊張感と、日々変わる法令に対応する知識の更新、それに加えて人間関係の調整…。これを「楽」と言えるのは、やったことがない人だけだろう。もう少しだけ、社会がこの仕事に対する見方を変えてくれたら嬉しいのにと思う。
孤独に耐える力がなきゃ続かない
結局、誰かにわかってほしいって思っても、誰もわかってくれない。だったらもう、ひとりでやっていくしかない。でもそれには、相当な覚悟と体力とメンタルの強さが必要。自分が元野球部だったことが、今も地味に支えになっている気がする。根性論は好きじゃないけど、孤独を背負う力って、部活で鍛えられた精神力と似ているのかもしれない。
命がけで向き合う仕事に意味はあるのか
じゃあこんなにも自分をすり減らしてまで、この仕事を続ける意味はあるのか?ふとした瞬間に、そんな疑問がよぎる。お金?達成感?社会貢献?その全部が「正解」だけど、どれも「本音」じゃない気がする。ただ、自分の仕事が誰かの大事な局面を支えているという感覚。それだけが、かろうじて自分を保たせてくれている。
誰かの人生を守っているという誇り
相続の登記、抵当権の抹消、会社設立の申請。どれも、人生の転機に関わるものばかり。その瞬間を裏で支えるのが司法書士の仕事。だから、地味だけど重要。見えないけれど、確かに役に立っていると信じたい。その誇りがなかったら、やっていられない。だけど本音を言えば、もう少し報われたい。せめて、誰か一人でもいいから、「ありがとう」と言ってくれる日があったら、それだけで救われる。
でも自分の人生はどうなっているのか
ふと周りを見渡すと、同級生たちは家庭を持って、休日は家族サービスをしてる。自分はというと、仕事のことばかり考えて、気づけばもう45歳。結婚もしていない。女性にもモテないし、恋愛の仕方も忘れた気がする。人生のほとんどを仕事に捧げてきたけど、それが正解だったのかどうか、今もわからない。
誰にも言えない問いを抱えながら
「こんな生き方でよかったのか?」という問いに、明確な答えはない。ただ、毎朝目が覚めて、仕事の準備をして、依頼人のために必死になる。その繰り返しの中に、微かだけど確かな「意味」があるような気もしている。愚痴をこぼしながら、それでも前に進むしかない。だって、命がけでやってる一件一件には、自分の人生も詰まっているのだから。