好きだった仕事が重く感じるようになった日

好きだった仕事が重く感じるようになった日

気づいたらため息の回数が増えていた

昔は「仕事があるってありがたいことだ」と本気で思っていました。依頼が入るたびに、どんな内容だろう、どんな人が相談に来るのだろうと、少しワクワクしていた自分がいたんです。でも、最近ではふとした瞬間にため息をついている自分に気づきます。依頼が入ると「またか」と思ってしまうことも。これが続くと、心が錆びつくような感覚になります。好きだった仕事のはずが、重く、苦しくなってきている。そんな感情を、自分の中で整理しきれずにいます。

楽しくて仕方なかった頃の自分を思い出す

開業したての頃は、何もかもが新鮮でした。依頼者に感謝されたときの高揚感、書類を仕上げたときの達成感、一つ一つが宝物のように思えました。夜遅くまで事務所に残っても、「よし、明日もがんばろう」と思えていた。今思えば、あの頃の自分は、希望と理想に支えられていたんでしょうね。好きなことを仕事にできたという自負があったし、やっと社会の役に立てているという実感もありました。

最初は相談を受けるたびに誇らしかった

とくに登記や相続の相談を受けたとき、自分が法律を通じて誰かの不安を解消できるのだという事実に、強い喜びを感じていました。「相談してよかった」と笑顔で言われると、それだけで一日が報われた気がしたものです。司法書士になってよかった、と素直に思えた。あの頃は、自分がどんなに頑張っても疲れを感じることはありませんでした。今ではちょっと信じられませんが、休日も進んで勉強したりしていました。

一件一件に丁寧に向き合えたあの頃

仕事量も少なかった分、ひとつの案件にじっくりと時間をかけられました。たとえば、相続関係の案件では、家族の背景を細かく聞いて、気持ちの整理を一緒にしてから手続きを進めることもできた。クライアントの話を聞くことが自分の役割の一つだと思っていたし、それができることが誇らしかった。でも今では、時間に追われる中で「早く話を終わらせなきゃ」という気持ちが先に立ってしまう。これが一番つらいです。

今は目の前の書類をこなすだけの毎日

いつからか、目の前の書類を淡々と処理するだけの仕事に変わってしまいました。相談者の顔を見る余裕もなく、ただ期限を守ること、ミスを出さないこと、それだけに神経をすり減らしているような感覚です。仕事としてそれが正しい姿勢かもしれません。でも、そこに感情がなくなってしまったら、自分は何のために司法書士をやっているのだろうと疑問に感じることがあります。義務感と焦りのループから抜け出せずにいます。

手続きが仕事のすべてになった気がして

登記簿を眺めて、必要書類を揃えて、提出して…。この繰り返しに感情を乗せるのが難しくなってきました。昔はそこに「人」がいたのに、今はただの「処理対象」になってしまっている気がする。たとえるなら、野球で言えば、仲間の声が聞こえない中で、ただボールを投げ続けているような感覚です。誰のために投げているのかもわからなくなる。仕事に魂を込めるって、今ではもうできていない気がします。

依頼者の笑顔より、ミスの恐怖ばかりが先に立つ

以前は「ありがとう」の言葉をもらうことが何よりのご褒美でした。でも今は、何かミスがあったらどうしようという不安のほうが先に立ってしまいます。書類に一文字間違いがあるだけで手続きが止まり、信頼も崩れてしまう世界。だからこそ神経を使い続けなければならない。でも、そのせいで依頼者の表情すら気にする余裕がなくなってしまった自分に気づくと、やりきれない気持ちになります。仕事が怖いんです、正直。

どこで心が折れたのか思い出せない

ある日、事務所の机の前でぼーっと座っていて、「いつからこんなに気持ちが沈んでしまったんだろう」と考えていました。はっきりとした転機があったわけではない。じわじわと、少しずつ、自分の中の「やる気」が削れていったような気がします。まるで、少しずつ水が漏れていくバケツを、見て見ぬふりをしていたかのように。気づいた時には、心はからっぽになっていました。

「好き」を「仕事」にした代償

「好きなことを仕事にできていいですね」と言われることがあります。でも実際には、好きだからこそ逃げられないし、好きだったものが壊れていくのを止められない苦しさもあるんです。趣味で終わっていれば、たぶんもっと気楽だった。責任や評価が乗っかると、好きを貫くには強さが要ります。野球だってそうだった。好きだったのに、レギュラー争いや監督の評価が入り始めると、ただの楽しみじゃいられなかった。

好きだから頑張れる はずだった

司法書士の勉強をしていた頃、「この仕事なら一生頑張れる」と本気で思っていました。深夜の勉強も、模試の結果に一喜一憂する日々も、「夢中」だったから続けられた。でも、いざそれを仕事にしてみると、「頑張ることが当たり前」になってしまった。応援してくれる人も、褒めてくれる人もいない。ただ「ちゃんとやって当然」と言われる日々。夢中と義務は違う。気づくのに、ずいぶん時間がかかりました。

でも好きだからこそ 失敗が怖かった

好きなことって、失敗したときのショックが大きいですよね。自分が「これは得意だ」「これで人の役に立てる」と思っているからこそ、ミスしたときの自己否定感は大きくなる。自信があった分だけ、崩れたときの反動も強い。だからだんだんと、自分を守るために、感情を閉じるようになってしまった。もう傷つきたくないという思いが、「好き」だったものへの距離をつくってしまった気がします。

誰にも頼れずに抱え込んだツケ

結局、一人で抱えすぎてしまったのかもしれません。事務員さんはいてくれても、全体の責任は自分にある。そのプレッシャーが、自分でも気づかないうちに、じわじわと積もっていった。もっと「助けて」と言えればよかったけれど、司法書士ってどうしても「一人で完結する」仕事の性質がある。弱音を吐いたらダメだと思ってた。けれど、それが一番の落とし穴だった気がします。

あなた: html形式にしてコピペできる形で出力してください ダウンロードファイルにはしないでください。!DOCTYPE htmlからスタートしてhtmlを閉じるところまで書いてください。最後まで出力してください。 好きだった仕事が重く感じるようになった日

気づいたらため息の回数が増えていた

昔は「仕事があるってありがたいことだ」と本気で思っていました。依頼が入るたびに、どんな内容だろう、どんな人が相談に来るのだろうと、少しワクワクしていた自分がいたんです。でも、最近ではふとした瞬間にため息をついている自分に気づきます。依頼が入ると「またか」と思ってしまうことも。これが続くと、心が錆びつくような感覚になります。好きだった仕事のはずが、重く、苦しくなってきている。そんな感情を、自分の中で整理しきれずにいます。

楽しくて仕方なかった頃の自分を思い出す

開業したての頃は、何もかもが新鮮でした。依頼者に感謝されたときの高揚感、書類を仕上げたときの達成感、一つ一つが宝物のように思えました。夜遅くまで事務所に残っても、「よし、明日もがんばろう」と思えていた。今思えば、あの頃の自分は、希望と理想に支えられていたんでしょうね。好きなことを仕事にできたという自負があったし、やっと社会の役に立てているという実感もありました。

最初は相談を受けるたびに誇らしかった

とくに登記や相続の相談を受けたとき、自分が法律を通じて誰かの不安を解消できるのだという事実に、強い喜びを感じていました。「相談してよかった」と笑顔で言われると、それだけで一日が報われた気がしたものです。司法書士になってよかった、と素直に思えた。あの頃は、自分がどんなに頑張っても疲れを感じることはありませんでした。今ではちょっと信じられませんが、休日も進んで勉強したりしていました。

一件一件に丁寧に向き合えたあの頃

仕事量も少なかった分、ひとつの案件にじっくりと時間をかけられました。たとえば、相続関係の案件では、家族の背景を細かく聞いて、気持ちの整理を一緒にしてから手続きを進めることもできた。クライアントの話を聞くことが自分の役割の一つだと思っていたし、それができることが誇らしかった。でも今では、時間に追われる中で「早く話を終わらせなきゃ」という気持ちが先に立ってしまう。これが一番つらいです。

今は目の前の書類をこなすだけの毎日

いつからか、目の前の書類を淡々と処理するだけの仕事に変わってしまいました。相談者の顔を見る余裕もなく、ただ期限を守ること、ミスを出さないこと、それだけに神経をすり減らしているような感覚です。仕事としてそれが正しい姿勢かもしれません。でも、そこに感情がなくなってしまったら、自分は何のために司法書士をやっているのだろうと疑問に感じることがあります。義務感と焦りのループから抜け出せずにいます。

手続きが仕事のすべてになった気がして

登記簿を眺めて、必要書類を揃えて、提出して…。この繰り返しに感情を乗せるのが難しくなってきました。昔はそこに「人」がいたのに、今はただの「処理対象」になってしまっている気がする。たとえるなら、野球で言えば、仲間の声が聞こえない中で、ただボールを投げ続けているような感覚です。誰のために投げているのかもわからなくなる。仕事に魂を込めるって、今ではもうできていない気がします。

依頼者の笑顔より、ミスの恐怖ばかりが先に立つ

以前は「ありがとう」の言葉をもらうことが何よりのご褒美でした。でも今は、何かミスがあったらどうしようという不安のほうが先に立ってしまいます。書類に一文字間違いがあるだけで手続きが止まり、信頼も崩れてしまう世界。だからこそ神経を使い続けなければならない。でも、そのせいで依頼者の表情すら気にする余裕がなくなってしまった自分に気づくと、やりきれない気持ちになります。仕事が怖いんです、正直。

どこで心が折れたのか思い出せない

ある日、事務所の机の前でぼーっと座っていて、「いつからこんなに気持ちが沈んでしまったんだろう」と考えていました。はっきりとした転機があったわけではない。じわじわと、少しずつ、自分の中の「やる気」が削れていったような気がします。まるで、少しずつ水が漏れていくバケツを、見て見ぬふりをしていたかのように。気づいた時には、心はからっぽになっていました。

「好き」を「仕事」にした代償

「好きなことを仕事にできていいですね」と言われることがあります。でも実際には、好きだからこそ逃げられないし、好きだったものが壊れていくのを止められない苦しさもあるんです。趣味で終わっていれば、たぶんもっと気楽だった。責任や評価が乗っかると、好きを貫くには強さが要ります。野球だってそうだった。好きだったのに、レギュラー争いや監督の評価が入り始めると、ただの楽しみじゃいられなかった。

好きだから頑張れる はずだった

司法書士の勉強をしていた頃、「この仕事なら一生頑張れる」と本気で思っていました。深夜の勉強も、模試の結果に一喜一憂する日々も、「夢中」だったから続けられた。でも、いざそれを仕事にしてみると、「頑張ることが当たり前」になってしまった。応援してくれる人も、褒めてくれる人もいない。ただ「ちゃんとやって当然」と言われる日々。夢中と義務は違う。気づくのに、ずいぶん時間がかかりました。

でも好きだからこそ 失敗が怖かった

好きなことって、失敗したときのショックが大きいですよね。自分が「これは得意だ」「これで人の役に立てる」と思っているからこそ、ミスしたときの自己否定感は大きくなる。自信があった分だけ、崩れたときの反動も強い。だからだんだんと、自分を守るために、感情を閉じるようになってしまった。もう傷つきたくないという思いが、「好き」だったものへの距離をつくってしまった気がします。

誰にも頼れずに抱え込んだツケ

結局、一人で抱えすぎてしまったのかもしれません。事務員さんはいてくれても、全体の責任は自分にある。そのプレッシャーが、自分でも気づかないうちに、じわじわと積もっていった。もっと「助けて」と言えればよかったけれど、司法書士ってどうしても「一人で完結する」仕事の性質がある。弱音を吐いたらダメだと思ってた。けれど、それが一番の落とし穴だった気がします。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。