やっとの休日、それでもなぜか心が重たい
久しぶりの休日。予定も入れていないし、天気もいい。部屋でゆっくりできるはずなのに、なぜか心がザワザワして落ち着かない。身体は横になっているのに、頭の中だけは走り続けている感覚。これはきっと、同じように一人で事務所を切り盛りしている司法書士の方なら共感してもらえると思う。休みの日こそ、逆に「やるべきこと」が浮かんできて、まるで心が自分を休ませてくれない。そんな感覚に、もう何年も悩まされている。
休んでいるはずなのに疲れが取れない理由
頭の中が常に「次の仕事」で埋まっている
目を閉じても、浮かんでくるのは登記の期日や依頼者からの連絡事項。あの書類、ちゃんと届いたかな? 来週の面談は何時だったっけ? そんなことが次々と頭をよぎる。結局、布団の中でスマホを開いてメールチェックしてしまう。これでは「休んでいる」とは言えない。私の場合、休日に限って不安が増す。やっと手にした「自由な時間」が、かえってプレッシャーになる。まるで、休んでる自分を責めているような気分になるのだ。
電話やメールが完全にゼロになる日はない
事務所の電話は転送にしているが、休日でも突然鳴る。登記の相談、急ぎの案件、思いがけないトラブル。依頼者にとっては「今すぐ知りたい」ことでも、こちらはせっかくの休み。それでも出なければいけないという義務感。メールもチェックせずにはいられない。見なければ落ち着かないし、見たら返したくなる。こうして、結局休みも半分は「仕事の片手間」になってしまう。完全に心をオフにするのは、ほぼ無理だ。
「休み方」がわからなくなった自分に気づく
気分転換が義務のようになってしまう
「たまには気分転換しないとね」と言われることがある。でも正直、それがまたプレッシャーになってしまう。気分転換の方法を考えること自体が、もはや義務のようで、心が休まらない。どこかに出かけても「この時間をちゃんと楽しめているか」と自問してしまい、全然リラックスできない。せっかくのカフェでも、本を開いても、結局仕事のことが気になる。私の中では、「楽しいこと=気晴らし」になっておらず、何か作業の延長線上に感じるようになっている。
趣味を楽しむ余裕すらなくなった現実
昔は映画を観るのが好きだった。でも今では、2時間集中して画面を見ることが難しい。気がつくとメールチェックをしていたり、途中で思い出した仕事のメモを取ったり。気づけば心ここにあらず、という状態になってしまう。趣味は「楽しむもの」だったはずなのに、今は「できていない自分」に対する自己嫌悪の種になってしまった。休日に何もしないことが罪悪感になるような感覚に、すっかり蝕まれている。
地方の司法書士という働き方の孤独
都会のようにネットワークや交流会が多いわけでもなく、気軽に悩みを打ち明けられる仲間も少ない。地域に根差す仕事だからこそ、人には見せられない顔がある。事務員がいても、経営者としての不安や責任は一人で抱えなければならない。そして何より、どれだけ仕事をしても「自分は誰にも必要とされていないのでは」と感じる瞬間がある。そんな孤独が、心の疲労を加速させるのだ。
ひとり事務所のプレッシャーと責任感
誰にも相談できない不安
大きな事務所なら、何かあったときに誰かと分担できるだろう。でも、ひとり所長の私はすべてを背負う。しかも「相談できる人がいない」ということが、不安を増幅させる。たとえば、登記でミスが起きた場合、誰のせいにもできない。私の責任であり、私の判断だった。それが日常的なプレッシャーになっている。夜眠る前、ふと「あの対応で良かったのか?」と悩むことも珍しくない。
事務員には話せない微妙な悩み
事務員さんはとても頑張ってくれている。でも、こちらが抱えている本音や経営の悩みは、やはり言えない。人間関係を壊したくないし、不安を与えたくもない。だからこそ、どんどん一人で抱え込んでしまう。表面上は穏やかに過ごしていても、内面ではいつも葛藤がある。結果として、休日になっても心がほぐれない。疲れを取るどころか、むしろ蓄積させてしまう。
人とのつながりの少なさが心に影を落とす
お客様とは深く関われない距離感
仕事柄、お客様とは密にやりとりするが、それはあくまで「案件ベース」の関係。登記が終われば関係も終わる。笑顔でお礼を言われても、その先には続かない距離感がある。信頼してもらえるのは嬉しい。でも、何かあったときに「相談できる相手」としてカウントされるわけではない。この仕事において、人間関係は基本的に“使い切り”なのだ。
同業者との交流も最小限
近所の司法書士とは、年に一度の総会くらいで顔を合わせる。意外と皆、似たような状況で忙しく、集まる機会も少ない。オンラインの勉強会もあるが、画面越しでは本音が出しにくい。ましてや「心が休まらない」といった弱音は、なかなか口にできない。同業者であっても、やはり孤独感は拭えない。つながりが希薄なまま、日々の業務をひたすらこなしている。
「休む」ことへの罪悪感と焦り
世の中の「ちゃんと休もう」というメッセージが、逆にプレッシャーになることもある。私はどうやら、休むことに慣れていないのだ。忙しい日常に追われているうちに、「何もしない時間」を受け入れられなくなってしまった。時計を見ながら「何かしなきゃ」と焦る気持ちに支配される。結果、心は常に張り詰めたまま。これでは、どれだけ時間があっても休めるわけがない。
休んでいる間に誰かが先に進んでいる気がする
仕事が減る不安がつきまとう
地方の仕事はいつも安定しているとは限らない。だからこそ、ちょっとでも休むと「その間に誰かが別の司法書士に依頼してしまうかも」と焦る。この恐怖心が、「休むこと」への抵抗になっている。安心して寝転ぶより、PCを開いてSNSや情報サイトをチェックしてしまう。安心を得たいのに、逆に情報で不安になっている自分がいるのは皮肉だ。
結局、パソコンを開いてしまう休日
「今日はパソコンを開かないぞ」と決めても、午後には結局起動してしまう。書類の進捗を見たり、書きかけの書類をチェックしたり。やってしまった後で、「ああ、また休めなかった」と自己嫌悪。休日というより「稼働時間が短いだけの日」になっている。心も体も、完全にオフにはなっていない。
それでも心を保つためにできること
こんな私でも、少しだけ気持ちが軽くなる瞬間がある。大きなことではない。むしろ、ほんの些細なことが心の支えになっている。無理にポジティブになろうとせず、自分の気持ちを受け入れること。これが、私なりの「休む」一歩になっている。
愚痴を言える場を見つける意味
同じ悩みを持つ仲間との共有
最近、同業者とオンラインでつながる場に参加した。最初は構えていたが、ふとした瞬間に「実は俺も心が休まらない」と誰かが漏らした言葉に、救われた気がした。自分だけじゃない。同じように悩んでいる人がいるという事実が、心を少し軽くしてくれる。同じ職業でなくても、「わかるよ」と言ってくれる人がいるだけで、少し違う。
「自分だけじゃない」と思える安心
人に愚痴を言うのは、甘えだと思っていた。でも今は違う。誰かに「実はさ…」と話せた時、自分の中に溜まっていた何かが流れていくような感覚になる。休みの日に一言でも誰かと会話できたら、それが支えになることもある。そういう日が少しずつ増えるだけで、心がほんの少しほぐれていく。
小さな癒しを丁寧に味わう
日常の中の「ホッとする瞬間」を探す
たとえば、朝に淹れたコーヒーの香り。夕方の静かな風。そういった「なんでもないけど、少し心が和らぐ瞬間」を、意識的に味わうようにしている。最初は無理やりだったが、少しずつ、「あ、これ心地いいな」と感じられるようになってきた。完璧に休めなくても、少しだけ心が緩む時間があれば、それでいいと思うようになった。
仕事以外の世界を持つことの大切さ
仕事ばかりしていると、「自分は司法書士でしかない」と思い込みがちだ。でも、そうじゃない。自分にも、好きな音楽や、昔好きだった本、ちょっとだけ笑える動画を見る時間がある。そういうものに触れることで、「ああ、自分は人間だった」と思い出せる。休みの日を100点にしようとせず、「ちょっと心が動いたらOK」くらいの気持ちが、今の私にはちょうどいい。