趣味はあるけど語る相手がいない
自分なりに時間を見つけて、ささやかな楽しみとして続けている趣味がある。けれど、その話を誰かにしようとすると、思いのほか反応が薄い。たとえば私は古いプロ野球のデータ集めや、球場ごとのスコアボードのデザインを比べたりするのが好きなのだが、これを語れる相手がいない。事務所の事務員さんに話しても「へぇ~」で終わってしまうし、友人もそれぞれの家庭や仕事で忙しい。話す前から、「これ言ってもつまらないだろうな」と感じて口を閉じることも増えた。
話すことが前提の趣味だったと気づく瞬間
ひとりで完結する趣味もあるにはある。たとえば読書や釣り、模型づくり。でも、やっぱりどこかで「語りたい」「共有したい」という欲求がある。昔はプロ野球の開幕戦について熱く語れる仲間がいたし、「あの試合、観た?」と盛り上がれた。趣味そのものよりも、語り合うことが大事だったんだと最近気づいた。今も相変わらず野球が好きだけれど、ひとりで観るのと、語り合うのとでは、全く違う充実感がある。
黙々と一人で続ける楽しさとむなしさ
一人でできることは気楽でいい。でもそれは、語れる人がいることを前提にしていたからこそ楽しかったのかもしれない。仕事が終わって、事務所にひとり残って動画で試合を観ながらメモをとる。自分なりに楽しんでいるつもりだけど、ふと、「誰かとこの話がしたい」と思った瞬間に、急にむなしくなる。ただ、好きなことを辞める理由もない。だからこそ余計に、その“語る相手の不在”がのしかかってくる。
「聞いてくれる誰か」がいた頃との違い
学生時代は、特に野球部だったこともあって、野球の話題には事欠かなかった。誰かが必ずノッてくれたし、笑いも飛び交った。あの空気の中にいると、自分の存在も肯定されている気がしていた。今は仕事のことばかりで、趣味の話なんて出る隙もない。話題を出す気すら失ってしまうのは、きっと“受け止めてくれる誰か”がいないからだと思う。
共感のない相槌は余計に辛い
語った先にあるのが「ふーん」とか「へぇ~」だけだと、自分の中の熱量とあまりに温度差があって、こっちが恥ずかしくなってくる。事務員さんも気を使ってくれてはいるのだろうけど、あくまで仕事上の関係であって、趣味を共有する相手ではない。話すほどに“すべってる”気がして、次第に自分でも「これは独り言か?」という気分になってくる。
「ふーん」「すごいね」で終わる切なさ
反応が薄いのは仕方ない。興味がないのだから。でも、自分としてはワクワクしながら語ってるのに、「ふーん」「すごいね」で終わってしまうのは、なかなか堪える。まるで一方通行の高速道路をひとりで走っているような気分になる。そのまま黙り込むのがオチで、次第に語ることすら諦めるようになってしまうのだ。
話すのが怖くなって趣味ごと封印してしまう
一度、「なんでそんなの好きなんですか?」と笑われたことがある。冗談半分だったとは思うけど、それ以来、誰かに趣味の話をすることが怖くなってしまった。話しても否定されるだけなら、最初から話さない方が楽。けれどそれは、好きなことを隠すことで自分をも閉じ込めているようなもので、余計に孤独を感じる原因にもなっている。
事務所で交わされる会話の限界
仕事中の会話は、ほぼ報告・連絡・相談に限られる。気を抜いて雑談しようものなら、「この人ヒマなのかな」と思われそうで、無駄に気を使ってしまう。事務員さんは悪くない。むしろ一生懸命にやってくれている。でも、だからこそ私の趣味の話なんて、出すべきじゃないと思ってしまう。業務の空気が全てを覆っている感じだ。
仕事の話以外が続かない空気
昼休みにぽつりと「昨日の試合、見ました?」と振ってみたことがある。でも「あ、見てないです」の一言で終了。無理に広げても不自然だし、仕事に戻る空気が濃厚だったので、それ以上は言えなかった。会話は双方向のキャッチボールだというけれど、相手がグローブを構えていないのにボールを投げるわけにもいかない。そんな毎日だ。
事務員との距離感と気遣い
事務員さんとは年齢も違うし、当然趣味も合わない。それでも気を使ってくれる優しさには感謝している。ただ、その優しさがかえってこちらを黙らせることもある。無理に話を合わせてくれる姿勢が見えると、なんだか申し訳ない気持ちになるのだ。だから、趣味の話は封印して、業務だけに集中するようになった。
笑い話にできるようなネタもない
「この前こんなことがあってさ~」というような、雑談ネタが思いつかない。そもそも誰かと出かけることも少ないし、趣味もひとりで完結するものばかり。話したいネタはあるにはあるが、それを語っても伝わらないなら無意味に思えてしまう。結局、話さないほうが気が楽になるという選択肢ばかりを選んでいる自分がいる。
独身司法書士の週末と趣味の距離
週末くらいは趣味に没頭したい。そう思っても、誰とも共有できない時間は、次第に味気なくなってくる。一人でスポーツ観戦をして、ひとりごとのように実況している自分がなんだか滑稽に思えてくる。昔は「今日はどこに行こうか?」と誰かと相談していたのに、今はその相談すらできる相手がいない。そんな週末が続いている。
趣味に逃げる週末、だけど誰とも共有できない
趣味に没頭している時間は、仕事のことを忘れられるし、自分らしさを取り戻す大切な時間だ。でも、それが“逃げ場”になっている自覚もある。現実から目を背けるために趣味にしがみついているような感覚。そしてその趣味を語る相手がいないことで、自分の存在がますます希薄に感じられてしまう。
SNS投稿もむなしく感じる
誰かと話せないからSNSに投稿してみる。でも“いいね”が2件だけとか、フォロワーの反応もなくて、逆に落ち込む。画面越しの共感は一時的な気休めでしかなく、やっぱりリアルな会話の方が欲しかったと痛感する。結果的にSNSすら開かなくなり、ますます孤立感が強まっていく。
「誰かとやる趣味」がうらやましい
サッカーやゴルフ、ボードゲームのような“誰かとやる前提”の趣味が羨ましくなることがある。仲間がいてこそ成り立つ楽しみ。その一体感を味わえるのは、とても貴重だと思う。だけど、独身で、しかも仕事が忙しい身としては、それを始める機会もない。結局、また一人でできる趣味に戻るしかない。
それでも趣味は自分を保つ最後の砦
語れる相手がいなくても、趣味を続ける理由がある。好きなことがあるから、なんとか踏ん張れている。自分だけの世界で、誰に否定されることもなく楽しめる時間。それがなければ、とっくに気持ちが折れていたと思う。趣味があって良かった。そう思える瞬間があるから、また一週間を頑張れる。
趣味がなければ壊れていたと思う
好きなものに夢中になることで、無理にでも「今日をやり過ごそう」という気持ちになれる。どんなに疲れていても、試合の録画を観たり、記録を見返したりする時間が自分を支えてくれている。語れなくてもいい、わかってくれなくてもいい。ただ、そこに野球があれば、私はまだ大丈夫だ。
語れないからこそ深くなる没頭
誰にも語れないからこそ、自分の中で趣味の世界はどんどん深くなる。スコアブックの記録を見返して、あのときの采配を想像したり、当時の選手の言動を調べたり。語ることができない代わりに、自分の中での対話が濃くなっていく。もしかすると、誰かに話すよりも、ずっと密度の濃い時間なのかもしれない。
誰かに話したいと思える趣味があるだけで十分
今は語る相手がいない。でも「話したい」と思えるくらいの熱量を持てる趣味があることは、本当にありがたいことだと思う。いつかまた、同じ目線で話ができる誰かが現れるかもしれない。そう思えるだけで、今日もまた少しだけ前を向ける。趣味があることは、孤独でも、自分にとっては救いなのだ。